0年0月0日
お彼岸など 平野会友
2013年08月28日
専念寺 平野法好 会友 2013年9月18日


本日は週報を見ていただくとわかりますように、江田会友の卓話でしたが急に来れなくなったということで3時間前になって卓話をしてくださいということでしたが、今日はまだましな方です。私は昭和62年の10月31日に入会させて頂きましたが、その時は食事が終わりかけた頃になって、今はもう退会されましたが江藤会友に「何でもいいから卓話してくれ」といきなり言われたことがあります。話は下手で不勉強ですが、職業柄で話せと言われれば1時間でも話す内容があります。今から9年前、(プログラム委員の)宮崎先生の奥さんから雛供養をしませんかといわれまして始めた活動が今では全国規模になっておりますし、江田さんも玉川斎場で誰よりもうちがお世話になっておりますし、うちの門徒さんでありますので(卓話を)断る材料はありませんでした。バタバタ用意してですね、卓話になるかわかりませんがよろしくお願いします。また私は本日2時間しか寝てない悪条件です。なぜなら宗議会議員選挙がありました。参考のためにせっかくならお話をさせて頂きますと私の寺は真宗大谷派ですがいわゆるお東さんです。浄土真宗にも10派あります。最近では東の中でさらに分裂しまして11派あります。日田は天領であった関係で東が多いのです。豊臣秀吉に西から東に強制的に転派されたところが多いのです。日田で西は3つしかありません。その西の照蓮寺さんでは絶対に転派しないと言い張って殺された総代がいると聞いたことがあります。私の所は真宗大谷派(東)であります。日田は数の上では東が多いわけであります。真宗大谷派は全国をいくつかの教区に分けております。行政で言えば都道府県のようなものですが、こちらは日豊教区といいまして昔の豊前豊後が日豊教区になります。その教区を統括するところが宇佐の四日市にありまして、先ほど選挙と申しましたのがこの日豊教区から2人代表者を選出するものであります。私は選挙の立会人ということで一日中投票所におりましたが、1日がこんなに長いものかなということを感じました。教区の中でさらに細かな枠組みを組(そ)といいます。日田は日田組(そ)です。年齢的に仕方ないんですが私がその組長(そちょう)をしております。文字で書いたら「くみちょう」です。今回は浄満寺のご住職が教区の議員に立候補した訳であります。やはり議員は地元から出したいので、私も努力しておったのですが、浄満寺の住職は見事トップで当選を果たしたのであります。その関係で3時から4時ごろまで飲み明かしておったのであります。こういう機会もないので説明をさせて頂くと、寺の建物と敷地を「坊」と申しますが、それで住職の事を坊主と言います。そして坊主の奥さんを坊守といいます。若い住職のことを若いご院家で若院というんです。若院会という組織もあります。昨日の選挙では若院達も選挙運動員として駆り出されまして、そのうちの一人がうちの若院でした。選挙では組長のお寺が投票所になるのが通例ですが組長には投票権がありません。また組長と関連がある若院の運動員がいる所も投票所にはできないということで、願正寺さんをお借りして投票所にいたしまして、朝の7時から夜の7時まで若院と坊守と皆総出で管理しまして、私はそのあと投票の終わった箱を宇佐まで持って行って、それから開票をいたしました。4年前の開票は夜中の三時まで開票がかかりました。昨日は12時に当確が出ました。それから3時過ぎまで飲んでおりましたので体がとても正常じゃありません。
さて本題ですが、資料を2枚お配りしました。1枚はお彼岸の話です。もう1枚は以前卓話をさせて頂いたときに話したかった「辞世の句」であります。そのときは話す暇がなかったんですけど未練がありました。ばたばた資料を探したんですけれども、上人がいよいよ亡くなる時に残した句であります。最初の句は「邪魔になる自力を捨てて、今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」。この句を残して数分のうちに亡くなったということであります。亡くなって121年でありますが、121年前での87歳はそうとう長生きだったと思います。自力他力という言葉を聞かれたことがありますか。特に真宗は親鸞上人が残した教えでありますが、すべては他力からであります。まず生まれてきた時点が他力です。みなさんこの世がおもしろそうだ、と思って生まれてきた人はいないですよね。物心がつくのは3歳ぐらいでありますが、それまでは無意識です。全ては自分が気がつかないところで他人の世話になって生きております。すべてが他力、ということであります。みなさん座られておりますが椅子がなかったら何分同じ格好でいられますか。その椅子も床がなかったら立ってもいられません。空気一呼吸からしてお恵みです。水がないと全てのものはやっていけませんが、水一滴が大事なこともあれば、ありすぎれば去年は日田でも大水害でありましたが、昭和学園も浸かったように災害にもなります。全ては他力によるものです。人間はその中からわずかな自力を出しているに過ぎません。私たちはどうかすると、人にしたことばっかりを言いしてもらったことは忘れます。反対の方がいいのです。してもらったことは忘れずしてあげたことは忘れましょう。しかしなかなか煩悩を抱えている我々にはできません。この句は自力について「今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」と、なかなか死ぬ直前にこのような辞世の句の気持ちにはなれませんよね。二つ目は「出かけてはまた立ち返る時雨哉」。この句は一度危篤状態になりまして元気になった時の詠です。西光寺さんの当時の住職(せっすいさん)と五岳上人はツーツーの仲だったといわれてますが、五岳上人が危篤状態になったと聞いて、慈眼山のふもとの西光寺から隈まで歩いて参りまして「私は(五岳上人が)亡くなったと聞いたので、枕木をあげにきました」とまだ生きている五岳上人に(わざと)言ったそうです。仲良しだからこそ言える言葉を聞いて起き上がって筆と紙をとってこの句を詠んだということです。そして五岳上人の最後の言葉「いざ西へ向かいて 先に出かけ候 そろそろござれ あとの連中」です。これは亡くなる数分前に詠んだ歌だそうです。なかなか死ぬ直前にこうは詠めないと思います。ある宗の高僧は亡くなる数分前に「死にたくない」と3回言って亡くなったという話がありますが、笑い話ではなくそれが私たちの本音だと思います。結局はみんな死が怖いんです。「いざ西へ」とは西方浄土でありますが、先に参りますのであなた方はゆっくりしていてくださいということです。ご紹介させて頂きました。
お彼岸についてですが、中西さんの協力もありまして地元新聞に出さして頂いたこの記事は購読率が高くてかなり好評でした。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが春の彼岸と秋の彼岸で、同じ中日でも秋のお彼岸の方が10度から14度ぐらい温度が高いのです。彼岸は彼(カ)の岸と書きまして、私たちのおる世界は此岸(しがん)と言います。私たちの住んでる国(此の岸)で私たちは口に出さなくても自己中心的になっているんです。案外自分の事は気付かずに人のことはよく見えるんです。お参りするときに蝋燭をともしますが、どうして蝋燭をともすかというと、仏様の教えを光に変えて、自分の姿をしっかり見るということです。そこで本当の自分の姿を見い出すということです。法話で隣の家の障子が破れているのを見て笑っていた人は、自分の家の障子の穴から見ていたという話がありますが、自分の事には気付かない、人のことにはよく気づくんです。去年の5月ですが、スマイルさせていただいたことがありますので記憶がありますが付近で火災が発生いたしました。門徒のお葬式が終わってすぐの初七日のお膳の時で、お寿司のおこぜにいってたら、友達から電話がかかってきて私の寺の納骨堂からものすごい煙が上がっているというんです。距離でいえばおこぜから2、300mなのですが確かに大きな煙が上がっていて、1分か2分かの間にハッと思ったことを覚えているんです。先代の住職が言ったこと思い出したのです。先代は本堂が燃えたら責任をとって本堂の火に飛び込むと言いました。そのことを思い出したわけです。大山に西林寺とありましたけれども前の住職がもう亡くなった寺ですけども、昭和25年に本堂が火災にあって、燃えてしまったんですよ。その時に住職として責任を感じたのでしょうか炎の中に飛び込んだんですよ。幸い近所の人がすぐ引っ張り出して重症は免れましたが、それを思い出したんですね。結局火事は本堂が燃えてるような気がしましたがそうではありませんでした。で、そこからが問題なんですが、「ほっ」としました。いつの間にか無意識のうちに、本堂じゃなくて良かったと思ったんです。つまり極端に言えば自分の家じゃなかったから良かったって事です。この前人の家に行ったら「病はこの家を避けて通れ」とお札がありました。どの宗教かわかりませんが引き破ろうかと思ったぐらいですが、それは病が隣の家ならいいってことじゃないですか。恐ろしいですね。そういう時、まさに御釈迦様の教えを思い出すのですよ。その時にはKCVに専念寺付近って出たので大丈夫かって心配して頂いて、電話がたくさんかかって来ました。若い人も多く集まってきて「野次馬が多いなぁ」といってましたが、隣の人が「お前もその一人じゃないか」と言っていました。自分のことは気づかないってことです。さてあっちとびこっちとびの話でよく分からない話になりましたが、一応時間になりましたのでこの辺で。
青柳寿人会友の卓話
2013年08月07日

会員卓話
青柳会友
六月の夜間例会の時でありましたか、橋本会長とちょっと話をしている中で戦争の話が出まして、いくつか話をしましたところ今は実体験を話をする方がいないので、戦争の話をして頂けたらということでしたら、プログラム委員会の宮崎さんからぜひ卓話をお願いする、すぐ話がきました。そのうちまとめられると思っていましたら時間もなく、今日は思いついたことを適当に話そうと思っています。
私は昭和2年生まれで82歳になります。このクラブでもっとも年寄りになると思います。昭和の一桁の前半生まれは何人かいたと思いますが、その中でも私が一番上だと思います。私が米軍の攻撃から逃げ回ったことも、戦後68年になったということで、記憶も薄くなってきて思い出すこともありますし、どう考えても思い出さないこともありますし、年齢的なものからボケがきているものかはわかりませんが、みなさんにこういうことをお伝えしたいということを思っていると適当な言葉が出てこない。文字にしようとすると半分以上が感じが出て来ない、ということで間違いがあるかもしれませんがお願いします。
ちょうど今100歳の方は大正2年生まれでありますが、大東亜戦争当時はその方達が30歳であります。私が生まれた頃は戦争というものは認識はできていましたが、体験するものは少なかったものでございます。お話することはまず一番に私が物心ついた時には物資が不足しておりまして、すでに配給制度になっておりました。今のちょうど日田の街の中で、筑邦銀行の敷地が日田の米の配給所でした。日田の中で一軒しかお米を取り扱う場所はありませんでした。その場所では家族構成を聞かれて、米をもらっていました。衣類も切符制で、たばこお酒をはじめ、すべてのものが配給制か、切符制でありました。タバコも刻みタバコしかなくて、薄いタバコ紙を巻いて木の台の上で作るのであります。お酒は当然切符制でなくて、お祝いがあると、結婚式や出兵がある時に申請をして市役所からもらってくるものでした。あとは闇で作って飲むしかありませんでした。
昭和16年12月8日に、ニイタカヤマノボレという号令が発令されました。大東亜戦争に突入しましたのがその日です。支那事変が既に始まっておりまして、いよいよ物資が少なくなっておりまして、街中を歩いていても中年がおりません。病人か年寄りか婦人しかおりません。女子も挺身隊と名前がついておりますが、20から40歳の方はほとんどおりません。国防壮年会、国防軍人会などがありましたが、何をやっていたかと言いますと、バスケットボールゴールみたいなものがありまして、その真ん中に網もありませんで穴が空いております。その下に桶がおいてありますが、それを何に使いますかと言いいますと、防火練習です。川から50mぐらいの距離で水を貯めるバケツリレーをしておりまして、その穴にいれるわけであります。町内で対好試合をやっておりまして、水が一番たまった町内が優勝であります。竹の棒を藁縄でまいて長さ消防のまといみたいなものを作りまして、火を叩き消す練習を始めて、まだ空襲のなかった時代ではありますが、今考えると幼稚ではありますが、兵隊さんが頑張っているので、町は自分達で守るということで皆必死にやっておりました。我々は15歳で国を守るんだ、という気持ちでやっておりました。
もう一つは食料の増産であります。ほとんどの街という街の畑でといも作り、野菜作りを行っていました。また土地を持たない人は山田原などの原野を切り開いて蕎麦を作りました。蕎麦は肥料がいらなくてすむということで作りました。その後サトイモ、トイモを作りますが、一回目、二回目まではイモも出来ますが、3回目になると地力が落ちてできません。その当時はそういうことで町内でで仕事に出た記憶がありまして、林工に出て行きました。農繁期はほとんど学校に出て行った記憶がありません。クラス別に指定をされておりました。その部落に行くとじいちゃんばあちゃんが待っておりまして、各農家の加勢をしておりました。そういうことで軍事訓練、開拓、農家の加勢などが主な役割でした。婦人会も防空頭巾ともうしますか、訳40cmの四方ですが、頭にかぶれるように布を作って首をかけて、久留米絣というものでしょうか、衝撃を和らげるために綿を入れたものでしょうか、あとは水筒、それが必需品としてそとに出る時は歩かなければならないということで、かっこのいいものではありませんでした。私は小学校に入った時には靴がありませんでした。私は兄貴がおりましたが、お下がりでまともな服を着たことがありません。非常に貧困な時代でありました。
私は事情がありまして、昭和の17年に入っておりましたが2年で中退をしまして就職をしました。呉海軍施設部ということです。家におればすぐ徴用にかかるということで広島の呉にまいりました。その頃は海軍の飯を食った訳でございます。鎮守府は横須賀鎮守府、佐世保鎮守府、呉鎮守府の3つがありました。それ以外に要港というものがありまして青森の大湊、京都の舞鶴、朝鮮の木浦(モッポ)、台湾の基隆(キールン)の4つの要港がありました。そこに施設部というものが一つずつ存在していました。そこに配属になりました。私の兄が昭和14年に合格して霞ヶ浦海軍航空学校というところにおりまして、少年兵になっておりました。卒業しまして昭和18年の暮れに鹿児島の鹿屋から前線に飛びたつということで電報が参りまして、これは誰かが内緒で送ってくれたのでありますが、夜行列車で何時何分に鳥栖を通るということで面会したいということでありました。そのときに父親が所用がありましたので、お袋がぜひ会いたいということで送っていきましたが、話す時間がありませんので鳥栖から熊本まで一緒に汽車に乗って、汽車の中で兄貴を送り出した記憶があります。兄貴は昭和19年に戦死しましたという報告がありました。佐世保の鎮守府で遺骨を渡すということで、父も母も体調を壊しまして、遺骨の受け取りをしました。その後に呉の方に行きました。呉の方で2ヶ月ぐらい訓練を受けまして。今でいう大分の築城、宇佐、大分、高鍋、宮崎などが海軍の航空基地としてありましたのですけれども、その管轄が九州の佐世保から呉の方に管轄が変わったという関係で大分に19年の6月にそこに転勤になりました。大分の方で働いた訳でありましたけれども、大分の方にはすでに今津留の陸上競技場のところに航空隊が空港でありました。航空廠の跡地は今の岩田学園になっております。空港と航空廠その中間のところに私の事務所がありまして、大きな事務所でした。空港と航空廠の修理工場を往復できるよう大きな道路ができておりまして飛行機が離合できるようになっておりました。道路の枝葉が別れて、ゼロ戦の支援をできるような建物、構造物をそのものが格納できるようになっておりまして、私はその地下に潜って整備する仕事が一番多くなっておりました。山沿いに牧、高城という部落がありましが、今の護国神社あたりが高城というところでありましたが、大分には他に春日浦に水上飛行機の工場がありました。大きなトロッコみたいなもので海の中まで滑り込んでいくしくみになっておりまして、格納庫に引っ張り上げる工場がありました。高城のところにはエンジン専用の修理工場にありました。鉄筋コンクリートの5階建ての建物で、4機か5機かいっぺんに試運転できる建物がありました。飛行機エンジンは丸でございますのでボルトで固定してエンジンをかけています。防音をするためにマフラーがわりに天の方に音が吹き出るようになっております。春日浦には魚雷の工場がありましたが、そこでグラマンB29で死人が多く出まして、直撃弾で人間がどのようになるか、至近弾を受けた時にはどのようになるか、耳は3時間か4時間たたないと聞こえなくなるなどの話があります。また私は陸軍の方で金平糖一つで1ヶ月半鍛われた経験もありまして、まが話は序の口ですが時間が来ましたので、機会がありましたらお願いします。

原道子会友の卓話
2013年07月24日
8月11日にオープンする介護サービス美和などのお話しをしていただきました。
<卓話> 介護サービス美和 開設のご案内 原 道子会友
みなさまこんにちは。本日は若輩者の私がなんと卓話を仰せつかりました。ロータリアンにNOはございませんので、恥ずかしながらお話を進めさせていただきます。なんのお話をと思い悩みました。今回、ロータリーの決まり事である一業種一名ということでこの開業の話はいかがとは思いましたが、旬のことですので、あえてここでお話しさせて頂きます。
今回、介護サービス美和を始めさせていただきます。実は、3年にわたり企画しておりまして、もろもろの事情により(昨年の豪雨など)このように遅れてしまいました。この施設の名前の由来から説明させていただきますね。美和は、院長(原正隆会友)の母、つまり私の祖母になります。108歳まで長生きさせてもらえたのも、私どものスタッフの尽力によるものでございまして、それを少しでも他のかたに貢献できないかということが一番の理由でございます。また、病院内でのお声によりこちらにもそんな施設はないの?なんてお声もあったりして…本格的に施設の計画を始めました。
規模は、デイサービス25名、ショートステイ20名のこじんまりしたものになります。日田という地盤を生かし、木造の建物にいたしました。小さな土地にいっぱいいっぱいの建物ですが、私にとって只今唯一の宝物です。この原石を、宝石にするか、ただの石ころにするかは、これからの私達の頑張りしだいだと考えております。
今更ながら、一代で建物をたて、経営している父を本当に尊敬してしまいました。細かい細部に行き届いた建築をすることが、これだけ大変なんだとしみじみ思うしだいです。
一階のデイと二階のユニットのショートは、狭いのを感じないように、少しだけ天井をあげております。ご利用者様がご自宅にいる雰囲気に近づけるように考えておりますが、なかなか竣工した今になってあぁすればよかったのでは、とか思っています。病院勤務とはまた違いますので、まだまだ未熟ではありますし、不馴れな点が多々ありますが、皆さまに育てていただき、日々勉強したいと思っております。どうか、これから温かい目で見ていただけますと心強いかぎりでございます。
8月11日、原正隆会友のお誕生日にオープンいたします。晴れの門出に相応しいように残された時間を費やしていきます。なんだか、タイムリーなお話をいただいた皆さまに感謝をいたします。お時間をいただき、耳をお貸しくださいましたこと、本当に嬉しく思います。本日はいろいろありがとうございました。これをもちまして、終わりにしたいと思います。


「2013~14年度 日田ロータリークラブ会長方針」 橋本信一郎会長
2013年07月03日
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
「2013~14年度 日田ロータリークラブ会長方針」

ロン・D・バートン2013‐2014年度RI会長は「ENGAGE ROTARY CHANGE LIVES(ロータリーを実践し、みんなに豊かな人生を)」を国際ロータリーのテーマに掲げ、次のように話されました。
(以下、抄訳)
世界3,400のロータリークラブは国際レベルから地元レベルまで大小さまざまな方法でこの世界をより良くするために多様な奉仕プロジェクトを実施しています。
このロータリーの土台は、奉仕、親睦、多様性、高潔性、リーダーシップであり、これらの価値観がロータリアンとして私たちを定義づけるものです。
私たちは推薦され、その推薦を受諾することを選択してロータリーに入会しロータリアンとなりました。
ロータリアンである事は、世界における自分の役割を見ることです。ロータリーを真に実践し、ロータリークラブの奉仕と価値観を日々活かす決意をすれば、自分がいかに素晴らしい影響をもたらすことができるかが見えてくるでしょう。それは何よりもあなた自身の人生が一番豊かになるはずです。
皆さんはロータリーの襟ピンを身につけることを選択しました。これからどうするかは、みなさん次第です。
(抄訳おわり)

私は2013~2014年度の日田ロータリークラブ方針を前年に引き続き、
「会員の親睦・友情を第一とし、お互いに成長しながら、グローバルな眼と、より高い志と活力を持ったクラブになる」よう尽力したいと考えます。
日田ロータリークラブの49年の歴史と伝統の重みを大切にしながら、「一眼を足下に、一眼を世界に」をスローガンとし、今年度迎える創立50周年を節目として、地元と、世界にも目を向けた日田ロータリークラブの新しいステージの第一歩としたいと考えます。
「一眼を足下に」
・クラブ会員の親睦・友情を第一とする。
・お互いが括目して成長を楽しめる元気なクラブにする。
・創立50周年を盛大に祝えるように、会員が協力して準備する。
・会員の増強、特に、有為な若い会員や女性会員の入会を推進する。
・これから、日田クラブが第2720地区をリードするようなクラブになる為に、人材の育成と組織の強化を図る。
・ロータリーの綱領など、サーヴィス(奉仕)とは何かを改めて学び、職業を通じたサーヴィスにより、
世のため人のために貢献する。
・前年に開設したゴルフ同好会も活性化し、近隣クラブとの交流などに活用する。
・クラブ会計の正確な記帳と省力化の為、会計ソフトを導入する。
「一眼を世界に」
・機会があれば、出来るだけ海外に出かけ、世界の潮流を体験し理解する。
・中国語の学習クラスを継続する。
・昨年から着手しているミャンマーのティタンゴン村の小学校改修プロジェクトを
50周年記念事業の一つとして実現する。
・海外とのビジネスや交流の経験を卓話してもらうなど、グローバルな目と先見性を養う。

(イメージ)
楽しい・面白い・為になる → 有為な会員が増える → 自他共の成長に繋がる → 強いクラブになる
→ 世の為、人の為にサーヴィス(奉仕)する → 公共イメージが向上する → CHANGE LIVES
ガバナー補佐としての一年を振り返って ガバナー補佐 佐竹 享
2013年06月19日
2013年6月19日
ガバナー補佐としての一年を振り返って
2012~2013年度大分第一グループ
ガバナー補佐 佐竹 享

一昨年、9月のチャリティバザー終了後、武内会長から次年度のガバナー補佐就任を要請され、熟慮の末お受けしました。
その後,11月から早速岡村ガバナーエレクトによるガバナー補佐研修会が始まりその後、再度の研修会、新旧ガバナー補佐懇談会、ペッツに橋本新会長と出席、そして、地区協議会と年度が始まる前にかなりハードなスケジュールにびっくりしました。それと共に岡村ガバナーのロータリー対する情熱と熱意を深く感じ、責任の重さを痛感いたしました。
年度が替わり、岡村年度となった7月にさあ、各クラブを挨拶に回ろうとした矢先に北部九州豪雨に見舞われました。豪雨当日、7月3日は日田中央クラブを
皮切りに回ろうとしましたが、弊社から市内中央部への道路が水没し出席できなくなりました。第2週から中津3クラブを訪問いたしました。10日、中津中央クラブ、11日中津クラブ、12日中津平成クラブと3日連続で中津行です。
豪雨水害の足跡は本当に酷いもので片側通行15,6か所と通常1時間で行く距離を約1時間30分かかりました。
最初の中津中央クラブではほとんど知り合いは無く、緊張しましたが元ガバナー補佐の東納さんがお声をかけて頂きスマイルまで頂きました。それで少しほっとしたところです。
翌日の中津クラブは知り合いも多く少し安心して訪問しました。
何より助かったのは、地区インターアクトの委員長、委員時代からの人たちです。特に当時3年間、委員長をされた今年度幹事の日高さんがよくして頂きました。代々のインターアクト委員長も顔見知りで助かりました。
また、元ガバナー補佐の佐藤さんは私の会長の時のガバナー補佐だったので激励頂き、前川島ガバナー補佐からもアドバイスを頂きました。
その上、中津商工会議所の仲副会頭、細川副会頭もメンバーでした。
仕事の取引先の井上機工の井上社長もメンバーで、皆さんからスマイルをして頂き大変ありがたたったところです。
中津3日目の中津平成クラブも、幹事の辛島元ガバナー補佐以外は知り合いはいなかったのですが、3日連続で少し慣れてきました。
その後、各クラブのクラブ協議会、ガバナー公式訪問直前の訪問、そして最大の行事であるガバナー公式訪問です。中津3クラブは向笠元RI会長を輩出した地域であり伝統もあるクラブばかりで、岡村ガバナーも敬意を表しておられました。日田玖珠3クラブの公式訪問は、懇親会もあったためかなり和やかな公式訪問となりました。また、例会中は、ガバナーご婦人の案内を橋本会長ご婦人、横尾会長ご婦人と私の家内がして頂きました。ガバナーの奥様より大変感謝いただきました。
さて、その他の事では本年度は各種のセミナーが多くあり、そのほとんどにガバナー補佐の出席義務があり大分、熊本によく行きました。かなり勉強させられました。
大分第一グループでは初めての試み各クラブの会長幹事懇談会を公式訪問に向けて行いました。日田玖珠3クラブ、中津3クラブはそれぞれ交流があり顔見知りも多いのですが、日田玖珠と中津ではお互いに交流が無かったのをまず会長幹事から交流を始めようとしました。
また、2月のIM久しぶりに日田での開催となりました。日田ロータリークラブ会友のご協力で無事盛会に終了できました。
会長幹事懇談会のの中で中津3クラブで行っているゴルフ大会を拡大して第一グルーブの大会とすることも出来、6月9日に開催出来 ました。こういったことを続けることで第一グルーブ内の和、交流が深まることを祈念いたします。
この一年間、ガバナー補佐としていろんな方にお会いでき、お世話になりましたが、私にとって今後は経験できないようなことをさせて頂きました。日田ロータリークラブの皆様に厚く御礼申し上げ結びと致します。
「一年を振り返って」 橋本信一郎会長
2013年06月19日
「一年を振り返って」 橋本信一郎
今期は「一眼を足下に、一眼を海外に」という会長方針でスタートいたしました。
まず、足下ということで申しますと、
上半期に3名の会員が新しく入会していただき総勢54名のクラブになりました。残念ながら、会社の都合で1名退会となり、現在53名ですが、世界的に会員が減少する中で、比較的良い状況であるといえます。来期も有為で楽しい会員が増えて、活力があり、皆が成長できる日田ロータリークラブでありたいと考えます。

また、今期、趣味同好委員会にゴルフ同好会を新設し、毎月1回の開催を基本に懇親を深めておりますが、6月2日には小国ロータリークラブから4名が参加してくれました。これからも、ゴルフを通じて近隣クラブとの交流を深めることにも活用したいと思います。
6月9日には第一グループゴルフコンペが周防灘カントリーで開催され、日田からも10名が参加しましたが、生憎の雨でしたがゴルフを通じて親交を深めました。尚、5月12日の会長杯ゴルフでは、参加者中最高齢の中野会友が優勝、ニアピンも3個獲得されました。
さて、この1年間、第2720地区ではセミナー等が多く開催されました。7月12日のブライダル委員会 9月2日の米山記念セミナー、9月9日と10月27日の財団セミナー、7月28日、湯布院青年の家で開催されたインターアクト年次大会、10月13日のローターアクト大会です。
今年に入って、2月9日の熊本でのクラブ管理運営委員会です。
3月8・9日には、大分オアシスで「地区大会」が開催され、席上、日田クラブは会員増強優秀クラブの表彰を受けました。
4月21日には人吉で「地区協議会」が開催され、日田からもバスで多数参加いたしました。
更には、5月25日の熊本での職業奉仕セミナー、同じく熊本で5月31日、会員増強セミナーが開催されました。
これらのセミナーと式典には、副会長、各委員長と委員さん方が積極的に参加していただきました。セミナーや式典に参加すればロータリーが良く理解できますし、他クラブとの交流もできますので、来期も特に新会員の方たちには、多くご出席して下さいますようお願いします。
来期は日田ロータリークラブの創立50周年記念の年です。今期、他クラブから周年行事の案内のあったクラブにはほとんど出席いたしました。
9月15日の別府RC60周年、3月2日の 大分東RC50周年、4月20日の玉名中央ロータリークラ30周年、6月2日の国東ロータリー30周年です。
間もなく、石井委員長の下で50周年実行委員会が立ち上がりますが、来年の5月31日が大盛会、大成功裏に終わることを願います。どうぞ、皆様のご協力をお願いいたします。
岡村ガバナー公式訪問も、10月3日、日田クラブをホストとして3クラブ合同で開催されましたが、後の懇親会も含めて活気があり和気藹々とした公式訪問だったと思います。この席で、岡村ガバナーからミャンマー学校改修の窓口になる方をご紹介いただき、早速11月末のミャンマー訪問に繋げることが出来ました。
次に一方の「海外」に目を転じますと、国際交流のための中国語講座を開講いたしましたが、残念ながら少しずつ受講生が減っています。先に台湾で小籠包を食べに行った方がいいのかなぁとも思っています。
そして、50周年記念事業の一つとして、ミャンマーでの校舎建設の現地視察のために、田嶋副会長、織田R財団委員長と私の3名が、11月31日から12月4日まで行って参りました。現在はロータリー財団に補助金申請中ですが、いずれにせよ、雨期明けの10月には着工し12月か1月には開校式が出来るものと考えております。出来るだけ多くの方の参加を期待します。安倍総理も訪問されましたが、あの国は必ず発展する国であると確信します。それだけの素質を持った国民でで、且つ親日国です。
3月27日には嘉義玉山ロータリークラブがご婦人同伴で多数日田に来られ、夜間例会で歓待しました。
そのお返しで、4月24日から嘉義玉山扶輪社の14周年記念式典に草野会友、頓宮会友とともに参加して参りましたが、嘉義プリンスホテルの宴会場を借り切った盛大な式典と宴会だったので驚きました。翌日には八田與一技師の烏山頭ダムと日田からも協賛金を提供しました桜の植林を見学して来ました。本当に嘉義玉山の方たちも良くしてくれます。
川開きの5月26日には、日田市陸上競技場で日田少年ラクビーフェスティバルが開催され日田ロータリークラブが後援しました。大分・別府・中津・玖珠・日田の少年チームが熱戦を繰り広げました。
10月24日にパトリアで開かれたチャリティバザーでは過去最高の資金が集まったそうです。
6月12日には献血例会がありましたが、昨年の8月17日には県庁で36年間に及ぶ日田ロータリークラブの献血推進活動に対し厚生労働大臣の団体表彰を7受賞しました。これからも社会奉仕活動の一環として継続して参ります。
今期最後の6月28日の例会は二クラブ合同例会といたします。
その冒頭で、第2720地区・日田ロータリークラブ・日田中央ロータリークラブから、日田市に「災害用発電機15台」の贈呈式を行います。
これは第2720地区からの日田市水害お見舞金に、2クラブが金額を加え、日田市の要望である「災害用発電機15台」を贈呈するものです。
これは家庭用のプロパンガス2本で2時間発電できるので、災害時の停電などに非常に役に立つものだと思います。
この他にも、ゲスト卓話、会員卓話、職場例会、家族会などの夜間例会等々、各委員長と委員には大変ご苦労様でした。
会友各位に支えられまして、無事、1年間を終えることが出来ましたことを感謝いたします。来期1年もよろしくお願い致します。

創立50周年に向けて 石井会友
2013年05月29日
来年度、日田ロータリークラブは創立50周年を迎えます。記念式典、記念行事等の準備が始まります。



河津建設で職場例会
2013年05月22日
河津会友が経営する河津建設株式会社で職場例会が開かれました。

昼食は同じく河津会友が経営するけんちゃんうどん天神店から出張ランチサービス。

河津社長から卓話をいただきました。


「篆刻あれこれ」笹倉会友
2013年05月15日


「海外活動について」鬼武公洋会友
2013年05月08日
世界最大のワイン展示会「プロワイン」に参加するため片道17時間かけ、オランダ経由ドイツ、デュッセルドルフに向かいました。

プロワインは、世界50カ国から4000社が集まる世界最大の展示会です。圧倒されつつも、朝からわいんを飲みまくり。3日間で訪問したワイナリーは25社、飲んだワインは60杯です。今までのワイナリーさんに加え、新しいワイナリーさんとも親交を深めることが出来ました。


おとぎのがなぜワイン事業を始めたのか。それは、ワイン事業を通じ、現地の文化や人間性、モラルを学び、歴史と伝統に裏付けされた信頼出来るルートを構築し、その信用から日本の商品を紹介しビジネスにつなげたいから。
また、スタッフたちに仕事を通じてリアルに世界を感じ体感させることが、会社や地域にとって大きな財産になると考えています。
地区協議会報告
2013年04月24日
4月20−21日に熊本県人吉市で開かれた地区協議会に参加した会友から報告がありました。






「日田市政について」 原田啓介日田市長
2013年04月17日
代理で石松副市長に卓話いただきました。

「雑誌月間にちなんで」平野会友
2013年04月03日

今月は雑誌月間です。雑誌といえば毎月発行される「ロータリーの友」が中心だと思われます。しかし、読む方が少ないのが現状ではないかと思われます。
「ロータリーの友」には毎月ロータリーの誕生、日本のロータリー。ロータリーの綱領、四つのテストが記載されています。よく調べてみましたら、私は2007年、2008年と2年連続名前だけですが雑誌委員長になっていました。その時の活動計画書を読んでみます。
さて、雑誌のことはそれ位しか話題がありませんので、会長、幹事の認証を頂き、過去に私が全国各地でメイキャップした時のよそのクラブの模様をお話したいと思います。つい最近は3月14日大相撲春場所観戦の際のついでに「大阪中央ロータリークラブ」に行って来ました。今からバナーを回します。このクラブの会長は古谷裕子さんという女性会長で、女性会長のクラブに出席したのは初めてです。バナー交換を致しました。とても活発な行動力のある方のように思われました。昨年、親睦旅行で日田に一泊されたそうです。ホテルの名前は覚えていないそうですが、後でわかりました。最初に受付で「ミリオンランチ」という言葉を初めて聞きました。いわゆる「百万ドル」です。又、ビジターには記念写真をとり、次回の週報に載せるそうです。ある東京のクラブで同じ事があり、その時わざわざ週報を私の家まで送ってくれました。
さて、メイキャップでの経験感想を少しばかりお話させて頂きます。・時間厳守(12時半に扉が閉められる)大分のあるクラブ・最近一ヶ月の全員の出席状況を表にして全員に配る(飯塚クラブ)・時間が余った場合は親睦の時間を持ち、1時半まで終わらない(嬉野クラブ)・自分のクラブのロータリーソングを持っている。(本来のロータリーソングと2曲歌う、あるいは童謡を歌う所あり)・ロータリーソングの後に四つのテストを唱和する。・ソングの後お互い握手する。・特に都会地に行くと、エレクトーンが設置され、プロのプレイヤーがロータリーソングは勿論食事が終わるまで演奏を続ける。・又、ソングリーダーがタクトを持って指揮をとる。
去る3月13日「創立記念にちなんで」というタイトルで宇野会友より大変為になるお話を聞かせていただきましたが、創立当初の出席服装の厳しかったお話がございました。特に都会地のクラブに行きますと、全員暑かろうと寒かろうときちっと背広を着用しています。(僧侶は衣の場合もある)どこのクラブも1人2人僧侶の会員がいます。鳥栖クラブは僧侶が3人いました。
次に例会の模様をお話させて頂きます。・ほとんどの会場が丸テーブルで、テーブル8人位、委員会毎に分かれ1年間同じ席。・各テーブルにテーブルマスターが決められ指揮を取る。ビジターがいれば名前を記入し自己紹介をする。勿論例会が始まれば会長よりビジター、ゲストの紹介あり。・誕生祝は該当者がプレゼントを受け取った後、前に並びハッピーバースディソングで祝福をする。・週報はほとんどのクラブが地区の例会日、並びに内容を記載している。・卓話の時間は卓話者を中心とした写真を次回の週報に記載している。・又、クラブによってはビジターの挨拶の時間を設ける所もある。


「創立記念にちなんで」宇野会友
2013年03月13日

<卓 話> 創立記念にちなんで 宇野 龍頼 会友
私は創立後5年、伊藤隆会長の時に入会致しました。従ってチャターナイトの模様は良く存じませんが、その前後の事を記憶をたどりながらお話しいたします。 創立は昭和39年、1964年3月14日にチャターナイトを行いスタートしました。当時、日田には世界社会奉仕団体として日田ライオンズクラブが5年くらい前に設立されております。例の派手な帽子をかぶり、オープンカーで市内行進をされていたことが思い出されます。ライオンズクラブには当時日田の経済界の大御所が名を連ねておりますが、まだまだ優秀な方々が大勢おりますし、青年会議所を卒業された若い壮々たるメンバーがたくさん残っておられました。
当時中津には中津ロータリークラブが既に発足をしており日田より10年程前の創立です。10周年行事の一環として日田にロータリークラブを設立する事をターゲットに向笠先生を特別代表として日田の膳所先生を窓口に何回となく話しに来られたようです。 その頃日田中津街道は未舗装でしかも夏場の暑い盛りで車にはクーラーも無く窓を開けての走行は砂煙との戦いで大変苦労されたようでした。私も何回となく会員に誘われましたが青年会議所在籍中なのでお断りした次第でした。
その内20数名の同志が出来ましたのでいよいよ3月14日にチャターナイトを開催してスタート致しました。井上幸一さんは未だ若々しい30代のチャターメンバーです。中津の向笠先生の努力により日田ロータリークラブが発足致しました。向笠先生はその後1982-83年のRI会長に就任されました。その年度の日田RC会長が井上幸一さんで、あれから19年後です。井上さんご夫妻はこぞって世界大会にご出席されました。
次に私が入会してから苦労したのが出席の問題ではないかと思います。4代目会長に石川弥市さんがなられ出席100%にこぎ付けました。私が入会した伊藤隆さんの時にも100%継続中で、出席を一番やかましく言われました。頭の中は金曜日の出席で何度も寝てもさめても離れることはありませんでした。
欠席すれば何処どこに例会場があるからメーキャップをしなさいと、当時近隣のクラブは中津と甘木の2クラブだけで甘木には何回となく行きました。メーキャップの期間は前後1週間のみ有効でその間をはずせば無効となります。その内浮羽ロータリークラブが出来、日田中央クラブが出来て大分楽になりました。日田クラブが100%を切ったのは後藤豊次さんのお父さんが亡くなられた時に100%を切りました。出欠のグラフは私が出席奨励委員長のときにこしらえました。 次に常に言い聞かされたのがロータリーの精神です。ロータリーの綱領及び四つのテストです。活動計画書の表紙の裏面の1番に記載されております。綱領を読むのは省きますが四つのテストのみ読んでみます。
次に服装の件です。例会の際は必ずスーツを着用し、ロータリーのバッチを付けなければならない。バッチの無い者はペナルティを取られておりました。 最後に44年間ロータリーに出席して色々な事を勉強し体験をして来ましたが、その中でガバナー訪問の際に記念写真を撮りますが写真を見てたくさんの会員の歴史がその笑顔に一人一人刻まれており楽しく見ております。また、職業分類による会員の増強の変化です。会員の加入退会によりその時の日田の経済の流れが変わっているなと、これを興味深く見ております。
ゲスト卓話 「東日本大震災に被災して」金田孝俊氏 (福島県南相馬市出身)
2013年03月06日
被災され福島から日田市に避難されている金田様より卓話をいただきました。
初めに、生活品などを市より援助していただきありがとうございました。
私がこの日田の地に来たのは、岩手県と秋田県の境にある温泉地でご当地の前津江の方と知り合い、そのご縁で震災後にこちらに避難することになりました。
当日、自宅のある相馬市より一旦栃木へ移動し、その後車で前津江まで向かいました。しばらくは友人の厚意で前津江で生活していたのですが、その後日田市内の市営住宅へ移りました。しかし、来月4月5日には福島へ帰る予定です。

Q&A
Q:福島では何が一番必要ですか?
A:住居の整備が必要です。
Q:原子力発電所とご自宅の位置は?
A:30km内は保護対象区域なのですが、自宅はこれより700m外側です。
Q:数値は下がっていますか?
A:ある程度下がったようです。
Q:相馬へのルートは?
A:山陽道〜日本橋の三陸自動車道〜常磐高速道などのアクセスが考えられます。

ゲスト卓話 「日田やきそば研究会」の愛Bリーグ での活動について 社団法人日田市観光協会 事務局次長 木下周さん
2013年02月13日
日田やきそば研究会の愛Bリーグでの活動、町おこしの取り組みをお話しいただきました。

以下、概要。
①ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会(通称:愛Bリーグ)とは、各地に眠っている地域資源のブランド化による地域活性化を目指す団体です。
現在は、身近にある「食」にスポットを当て、B-1グランプリを開催している。
全65団体 九州10団体 大分県3団体
②B−1グランプリとは
年に1回の「まちおこし団体」のお披露目の場であり、このイベントを通して出展団体の地域を知ったり、気に入ってもらい現地に行ってもらう事を目指している。
決してグルメイベントではない。売り込むのはその地域。
「グルメイベント」ではない。→「まちおこしイベント」
昨年の北九州大会では61万人の来場者を記録
料理提供だけではなく、並んでいる人に対してパフォーマンスをしている。
開催の2日間、お客さんを呼ぶためのイベントではなく、残りの363日のまちおこし活動が重要
売るのは「料理」ではない。→「まち」を売る
日本一のグルメを決定し、表彰するイベントではない。
→表彰を受けるのはグルメではなく「団体」
「店舗が出店し味を競う」のではない
→「まちおこし団体が出展し地域の魅力を披露」

③日田やきそばにソウル!を込めて届け隊とは
「日田やきそば」というご当地グルメを通して、日田の魅力を内外の方々と共有する事を目的』とした団体。
「日田やきそば研究会」内の市民有志の会として8月9日(日田やきそばの日に制定)に発足。
B−1グランプリやPRイベントへの出展。地元開催のイベント
2月28日・3月1日は「高校卒業記念 日田やきそば無料進呈」を実施予定。
④「Japan Food Culture festival in Thai2013」へ出展
・クールジャパンキャンペーン「新たな日本文化の発信」
・タイ国における地域格差解消のための「一村一品」
日本をPRする地域の一角として名のりを上げる事
自分たちでも「できる」という経験を積み上げる事
タイ(バンコク)の事情を把握し地元へ伝える事
(成果と経験)
出展団体10団体の内九州で唯一
地元メディア取材多数
11月に事前視察、什器・材料を95%現地調達
事前にタイ有識者を招いての「タイ勉強会」の実施(12月23日)
延べ9名がスタッフとして参加。料理提供のみならず地元を伝えるパフォーマンスと参加者の経験
ほぼ現地調達のため、食材廃棄リスク最小限に提供できた
費用としては、原価よりも「移動コスト」がネック

ゲスト卓話 「日本と台湾文化の違い」黃盈錕(コウエイコン)さん
2013年02月06日
台湾 台北出身の黃さんに、日本との交通事情、食文化の違い、歴史などを卓話していただきました。




「イタリア紀行」永田会友
2013年01月23日
今回はアテンド(案内人)なしの一人旅でした。目的は2013年秋冬のコレクションの商談です。パリ→フィレンツェ→ミラノ→ローマと廻りました。
この旅行で私が大変厳しいと思った事をお話ししたいと思います。
片言の英語であれば、パリ、ミラノなど一部ではOKでしたがフィレンツェなど多くの地域では通じず、食事やチケットの購入などかなり時間がかかりました。
言葉が通じないと後回しにされてしまうからです。トイレの確保にも苦労しました。一般的には町でトイレを借りるときはバール(お店)でエスプレッソを注文し、それを飲んでトイレを借りることになります。
※豆知識 同じエスプレッソでも飲む場所で料金が違います。カウンターで1ユーロ、テーブルで3ユーロ、テラスで5ユーロ、など
侘び・寂びについて、日本人とイタリア人の見解の違い。この言葉はイタリア人も良く知っているがその意味を「淑やか」ととらえている。これはイコール弱いとも思われている。
イタリアではインフレが激しい。しかしイタリア人はこれを景気のせいにし、脱却のための努力をしない。
今回の経験を通して考え方やシステムの違いについていろいろと学ぶことが出来ました。そして、大胆な一面も身についたと思います。
ロータリー情報委員長 武内眞司
2013年01月16日
ロータリー情報委員会
ロータリー情報委員長 武内眞司
平成25年1月16日(水)
先週ご案内した通りに昨日、日田中央ロータリークラブに新入会員を伴いメイキャップに行ってまいりました。5~6名かなと思っていたところ私を含めて総勢10名でメイキャップをすることになり、中央の会員はみな驚いておりました。中央クラブの横尾会長からは、出席率を上げるために今後メイキャップを通じて、さらに交流を深めたいとの言葉をいただきました。ロータリーの大事な基本は、会費を納めることと例会への出席です。最近70%台に落ちている日田クラブの出席率向上のために、メイキャップの有効活用をさらに図りたいと思います。また会費の納付同様に会の運営に貢献するのがスマイルです、積極的なスマイル発表をさらにお願いいたします。
さて、今月はロータリー情報月間ということで久しぶりの卓話になります。時間の制約がある中、ロータリー情報として、会員が知るべきこと、また学ぶべき事柄が多く何を話せば良いか迷いました。ベテランの会員と新入会員が必要とする情報にはかなり違いがあるようにも思いますので、新入会員が学ぶべき基礎知識等は、後日開催予定の新人会員研修会で勉強してもらおうと考え、今日はロータリークラブの原点について、私なりに考察したことを述べたいと思います。
ご案内の通りに、国際ロータリークラブは、1905年(明治38年)にアメリカのシカゴで誕生いたしました。時代背景を言えば、日本にとっても明治38年は重要な年でありまして、当時は日露戦争の真っ最中にあたり、1月に水師営で乃木大将とステッセルが交渉したのち旅順入場があり、5月には東郷元帥が日本海海戦で大勝利を収めた年でもあります。
日露講和交渉を仲介したのはルーズベルト・アメリカ大統領ですが、悪名高きギャングのアル・カポネがシカゴで誕生したのが1899年ですので、当時のアメリカの地方都市の状況は、想像するにかたくはありません。
ロータリークラブはそんな荒んだ町シカゴで世界初の奉仕団体として誕生しております。創立者のポールPハリスは弁護士でありますが、地域を平和な町にするためには、市民が安心して暮らせる町にするにはどうしたら良いかと考え、個人の友情に基づく奉仕の精神こそが町を変え、国を変えると考えたようです。
国際ロータリーが発足以来100年以上経る中で、二度の次世界大戦を含め幾度となくロータリー会員は戦争を経験してきました、しかしながら戦争中のロータリークラブ活動の停滞や中止等を会員の叡智で乗り越え、現在200を超える国や地域に33000以上のロータリークラブがあり、会員は120万人を超えております。ロータリークラブは世界的な専門職業人のリーダーが集まる国際的組織です。
新入会員の方に、あえて高邁なことを言えば、日田クラブの会員は日田ロータリークラブを通じて、ポリオの撲滅や識字率向上を応援し、結果として世界平和に貢献していると言っても過言ではありません。
品格ある日田クラブに入会したことを誇りにし、一人一人が社会に奉仕するI serveの精神でより良い社会貢献をして頂ければ幸いです。
最後に、お手元におくばりした「ロータリーの行動規範」がロータリーアンとしてのあるべき姿を示しております。特に大事なのが7番と8番だと私は思います。日田クラブの会員は規範を実行し、さらに日田ロータリークラブの品格を高めましょう!
「上半期を終えて」 橋本信一郎会長
2012年12月26日
「上半期を終えて」
橋本信一郎
今期は「一眼を足下に、一眼を海外に」という会長方針でスタートいたしました。
まず、足下ということで申しますと、上半期に3名の会員が新しく入会していただき総勢54名のクラブになりました。
若い新進気鋭の湯浅会友と、当クラブ初の女性会員である原会友、大学で長年、研究と教育をされてこられた北川会友です。それぞれ個性のある会友の入会により、ますます活性化して楽しいクラブになること期待します。
今期の目標は5名ですから、あと2名、有為で楽しい会員が入会していただけますよう、皆様方には宜しくご紹介方をお願いします。
また、趣味同好委員会にゴルフ同好会を新しく創設し、毎月1回の開催を基本に懇親を深めております。今後は、クラブ内だけではなく、ゴルフを通じて近隣クラブとの交流を深めることにも活用したいと思います。来年4月には、第2分区のゴルフ大会が予定されておりますので、多数、参加されることを期待します。
10月24日のチャリティバザーにも、過去最高の資金が集まったそうです。皆様とご婦人方のご協力に感謝します。
10月3日の、岡村ガバナー公式訪問も日田クラブをホストとして開催されましたが、後の懇親会も含めて、若い会員の活躍で活気があり、ガバナーご夫妻も気持ちよく過ごされたのではないかと推測します。親睦委員会には年末例会も盛り上げていただいたことを感謝します。
それから、この上半期、第2720地区のセミナーが多く開催されましたが、各委員長と委員さん方が積極的に参加していただきました。
9月2日の米山記念セミナー、9月9日と10月27日の財団セミナー、7月28日のインターアクト年次大会等々です。やはり、セミナーに参加すればロータリーが良く理解できますし、他クラブとの交流もできますので、下期も特に新入会員の方たちにが、多くご出席して下さいますようお願いします。
また、期初早々に50周年実行委員長と2014年5月31日の開催日が決まりました。記念講演の講演者も交渉優先権を一応確保しております。
来年の3月9日に開催されます第2720地区大会では、日田の50周年記念大会に出来るだけ多くのクラブから出席していただくために宣伝をしなければなりませんので、多数のご出席をお願いします。
次に「海外」に目を転じますと、国際交流のための中国語講座が開講いたしました。
講師は鬼武会友の会社のネイティブスピーカー3名です。受講生は井上幸一会友夫人をはじめ10名です。来年には台北に小籠包を食べに行って中国語を使おうと話し合っています。
10月13日からの香港エレクトロニクスショウへの参加者は私だけでしたが、巨大な会場と来場者と数千と言われるブースの多さに、アジアの時代の到来を実感して参りました。
内陸の日田にいるからこそ、アジアには積極的に関わって、これからの日田市の活路を見出すべきだと考えます。これからも台湾嘉義ロータリークラブをはじめとして国際交流を盛んにしていきたいと考えます。
そして、50周年記念事業の一つとして、ミャンマーでの校舎建設の現地視察のために、田嶋副会長、織田R財団委員長と私の3名が、11月31日から12月4日まで行って参りました。
後で、現地の写真をお見せしますが、現在はとても貧しいですが、西側の資金と技術援助があれば、これから必ず発展する国だとの印象でした。
対日感情も良くオールジャパンで協力支援してくべきであると感じました。我々も細やかですが、ミャンマーの発展のために支援したいと考えます。
来年の年末頃には開校式があるはずですから、多くの方のご参加を期待します。
いずれにいたしましても、会友各位に支えられまして、無事、上半期を終えることが出来ましたことを感謝いたします。あと1年半、よろしくお願い致します。