卓話

2013年

会長卓話「2013-14年度上半期を振り返って」橋本信一郎会長

2013年12月25日

「2013-14年度上半期を振り返って」2013.12.25

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今年度は通常のロータリー活動の他に、創立50周年の記念事業が控えております。

既に石井博基会友を実行委員長として、各委員会が組織され準備活動を開始し始めました。

 

有能な日田ロータリークラブの会友が意見を出し合って準備を進めていますので、必ず素晴らしい式典と祝宴、記念誌が出来るものを確信しております。

 

その記念事業の一つとして、ミャンマー・キータンゴン村の学習小屋改修事業がありますが、先ほど、会長卓話で話しましたように、地方紙・全国紙合わせて6紙に記事が掲載されました。

 

大分合同新聞の記事をご覧になった杵築市の岡島正さんは、以前、国連のミャンマー支援事務所に働いていたとき換金せずに持ち帰ったミャンマーの通貨約17万チャットを、ミャンマーの子供たちの為にとご寄附下さいました。

 

各紙の記事によって、国際ロータリーと日田ロータリークラブの公共イメージの向上に貢献するとともに、ミャンマーの地方の教育実情を広く知ってもらうことも出来たと思います。日本とミャンマーの絆がますます強まることを期待します。

 

そのキータンゴン村に、10月25日から訪問し建設資金の一部を授与して来ました。雨期明けから工事を始めて、2月末に完成予定です。3月の初旬には、竣工式を現地で行いますので、多くの会員の参加を期待します。会員以外でもミャンマーに関心のある方の参加も歓迎します。

 

今期は50周年を機会として、会員増強を佐竹委員長が推進していますが、江田弘司会友、宮崎隆生会友、吉田裕一会友が入会され、現在、会員総数は54名です。まだ、入会候補者はいますので、精鋭のクラブを目指したいと考えます。

 

外部卓話も、アゼルバイジャン在住のノリコ・ダータシさんご夫妻、ミャンマーで学校建設を支援している古庄重生さん、日田ソーシャルビジネスの河津勇成さん、大分合同新聞日田支社長の岩本聡さん、富産業の吉富今日子さんにしていただきました。

私の印象に残ったのは、ノリコ・ダータシさんの「海外に出て初めて自分が日本人であることを自覚した」「歴史を勉強して、きちんと主張できる日本人にならなければならない」ということと、ご主人のハティさんが「日本にはイスラム教やキリスト教のような神がいないのに、日本人には道徳がある」「日本人は公共のために働くに感心した」と話されたことです。

会長方針は「一眼を足下に、一眼を世界に」ですが、今後も世界の話も聞いて世界と日本を理解して行きたいと思います。

 

9月24日には、赤山武興ガバナーを「みくまホテル」にお迎えしてガバナー公式訪問がありました。

その歓迎式典の式場で、シドニーで行われるR・I国際大会の関係で、それまで予定していた5月31日の50周年の式典に出られないという話があり、慌てました。翌日の早朝から手配して、6月14日に会場が確保できるということで、赤山ガバナーにも確認をとり、漸く式典日を確定することが出来ました。

 

また、今期も2720地区の各セミナーが開催されました。

9月29日、宇佐の米山記念奨学委員会セミナー

11月16日、熊本学園大学の職業奉仕セミナー

11月28日、熊本銀杏学園の創造的奉仕プロジェクト部門セミナーです。

各セミナーへは、私と田嶋副会長と会員数名が出席しました。このところ、セミナーが増えているような気がします。お忙しい中とは思いますが、今後とも出来るだけ多くの会員の出席をお願いします。

 

他に、12月11日の家族例会、10月23日のチャリティバザーには、奥様やご家族の方にご出席・ご協力をいただき、親睦を図ることができました。奥様方に感謝いたします。

 

また、職場例会にご協力いただきました皆様方と、会員卓話をしていただいた会員の方々にも感謝いたします。青柳会友はお話が完結しておりませんので、続きをよろしくお願い致します。

 

年が明けますと、いよいよ、創立50周年式典の下半期が始まります。年末年始はお体を十分に休ませていただいて、来年が良い年になることを祈念いたしまして、「上半期を振り返って」を終わります。

外部卓話「民謡と私」吉冨産業株式会社 代表取締役 吉冨今日子さん

2013年12月18日

日田市の吉冨産業株式会社の代表である吉冨今日子さんに、民謡についての卓話をしていただきました。

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みなさんこんにちは。初めてお会いする方も初めてじゃない方もいらっしゃいますが、私がこういう場でお話する立場でないと思いますがよろしくお願い申し上げます。本日はどういういきさつで吉富産業の代表になったかをお話いたします。私は熊本県阿蘇市生まれの37歳、母は日田市出身ですが、生後数カ月で亡くなりました。桜祭りというお祭りを日田市で3年ほどやりまして、誰かお嫁にもらえる人はおりませんか?と言い続けたところヒットしてこちらに嫁に来たということであります。

吉富今日子は民謡というイメージが強いですが、民謡の出会いはおじいちゃんにちっちゃい頃からお風呂で聞かされていたということです。9歳からイヤイヤながら合いの手をハイハイとか無理矢理させられて、いつの間にか習っていたということです。28年の歴史になります。民謡を通していろんな経験をしました。民謡という言葉がでてしまうと年配の方が多く、最初は私も学校で民謡をやっていることが恥ずかしかったのですが今ではフェイスブックフレンドになっている恩師の先生に「中学校の文化祭で民謡を披露しなさい」との背中押しで堂々と民謡を歌ってもいいんだということになりまして、色んなところで歌うようになりました。

 

そもそもみなさま民謡の歌詞は思い浮かびますでしょうか?日田で言うとコツコツ節や、有名なのは竹田の子守唄などですが、民謡というのはなんだろうと簡単にご説明させていただきますと、ここに歌詞本というのを一つ持って来ておりますけれども、昔からの生活を歌った唄なんです。田植え唄は昔からございます。4月5月の腰の痛さよ、泣く子に乳を飲ませる作業歌、労働歌でございます。生活の歌が繋がっております。日本が便利な世の中になっておりまして、田んぼ作りのことが現在の人は詳しくわからないのでありますが、手作業で腰の痛い思いをしながら稲を植えていた。今日も一日が長いなぁと言いながら、乳飲み子におっぱいを上げる時間があれば、その間だけは休憩ができるという、そういう作業歌であります。

 

現在私は民謡の普及活動をしようとしておりますが、民謡はご年配のイメージがあるんですね。九州各地に行くんですが、「こんなに若い人が歌うんだ」ということで驚かれることがあり少し残念だと思うことがあります。演歌とか今流行のJ-POPはわかっていただけますが、民謡って言葉だけはご存知なのですが、では民謡って何?というとわからない方が多くおられます。私は日本の各地で歌っておりますけど、民謡ってこういうものなんだってお三味線で歌うんだって、こんなに賑やかな曲もあり、こういうしみじみした歌もあり、ということで民謡を忘れないでいただきたいと思っています。後世に少しでも伝えていただきたいです。私は年間40回ぐらい大会などに出場します。本職は油を売ることですが、民謡をしながら外でも油を売っております。今年の当初の目標は九州から出るということにしまして、費用もかかることではありますが、日田をアピールしようと思っています。年初から姫路市に行ってきました。大阪では産経民謡大賞で5位をもらいまして、10月は東京に3回、津軽民謡もやっておりますので、他の大会にもたくさん行っております。プログラムには様々な方の出身地が書いてあるんですが、各県の大会に日田市の方がいないんですね。大阪に行っても兵庫に行っても名前がほとんどいない、ということで小京都である天領で個人的に民謡の輪を広げようとしています。人のつながりはお金では買えないと思っておりまして、フェイスブックもありますが人と人とのつながりが大事だと思っています。

 

私は平成18年12月24日にこちらに来ましたが、みんなに守られまして油を売ることを一から覚えました。平成21年だったんですが会長が亡くなりましたが今年3回忌でありました。9月21日に亡くなりましたが、実は内緒で2人で話したことがありました。寿司が食べたいというので行きましたが「僕とあの世で会った時に話をもう一度話をしよう」といわれ、どういう意味なんだろう?と思いましたが「それはあの世で(自分がいなくなったあとの)話をするだけでいい。急いでこなくてもいいよ」ということと今は思っています。「今日子、では頑張ってくれ」ということをその場で言われまして、その1ヶ月も経たない頃に倒れました。私が継いだニュアンスはそのようなことで受けとって頂きたいと思います。私は毎日現場を走り回っておりますので、今日子ちゃーん、と呼んでいただければ飛んで行きたいと思います。難しい話をすることはなかなか出来ませんので、昼食で眠たくなっておりますので、そろそろ唄をお願いします。笑うということは口角が上がって健康になりますのでみなさんもご一緒にお願いします。それではせっかくなので大分県民謡で、久住高原の歌を歌いたいと思います。
【唄の披露】それではもう一曲、有名な五木の子守唄には2種類あるんです。正調五木の子守唄を行います。【唄の披露】本日はありがとうございました。

 

 

 

 

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実際に、大分と熊本の民謡を披露していただきました。

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外部卓話「地域における大分合同新聞の役割」大分合同新聞社日田支社岩本聡支社長

2013年11月20日

大分合同新聞社日田支社岩本聡支社長の卓話。

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よく支局長といわれるのですが、大分合同新聞では2人以上社員がいるところは支社と言っております。正確には支社長の岩本です。

本日はよろしくお願いします。

みなさんは新聞業界の裏話などを本日期待されているかもしれませんが、本日は裏話ではなく実際は合同新聞の宣伝です。

私はこの前純文学の九州芸術祭文学賞で県代表に選ばれております。最優秀になれば本が出たり、芥川賞になったりするのですが、文壇では注目された賞です。芥川賞を取っていればここにいなかっただろうと思いますが(笑)、合同新聞では正しいものを見ているんだ、というだと思います。合同新聞では県内に7支社、11支局あります。日田支社には4人社員がいます。4年前に赴任しまして、facebookなどを始めて市民の方と交流をしてきました。

合同新聞が何を目指しているかというと、それは明確に「地域密着」であります。私が記者になりまして臼杵支局に初めて赴任しましたけれども、その時教えられたのは「合同新聞は地域の広報で良い、地域のPRをして来なさい。」ということでした。私は元々の文化部の出身で、政治部などの硬派な分野は苦手です。広報だけやってこいというのは気が楽でした。地域活性化のためには何が必要でしょうか。基本的には「やる気」だと思います。情報発信でのツールとして新聞なのですが、地域の人に元気になってもらいながら、日田っていいところだなってっていう記事だけを書いて行きたいと思っています。
わかりやすい指標としてどれだけ地域密着かというと、日田の記事がどれだけ載っているか、ということですが、合同新聞は他誌より先に書いた記事がこれだけあります(図表)。日田の記事が多いのでそれだけで立て混んでます。先ほどの情報発信の面ということで言えば、大分県内では合同新聞が圧倒的に部数が多いということがわかっていただけると思います。県内の部数でいうと圧倒的です。

老朽化の中央公民館の問題をいち早く伝え、この間大山町でコスプレイベントがあったのですが、それは2011年から紹介しています。まるはらさんの肉醤、去年の時点でこういうものを作ります、ということで紹介させていただきました。ネット関係では自動販売機を作った武内さんをご紹介させていただきました。私はこういう柔らかいネタが好きなので、こういうものをよく出させていただいてます。水害の時も行動が早くて大山の災害の記事でおばあちゃんが自衛隊に助けられている写真が出たのもうちだけです。合同新聞が率先して出しています。あそこにはああいう被害があるんだ、という被害の報道を一回だけじゃなくて、生活情報が大事だと思っていて被災者の方に有益な情報を出そうということで、真っ先に何回も何回も出そうとしています。同じ情報を毎日載せるのは如何なものか、ということですが現地の方たちのために私が押し通しました。
あと大事なことですが情報は複数から取ってください。同じ内容の報道でも記事によって伝え方が違います。何かの施策に対しての批判は、複数の紙面をとって考えていただきたい。何のために記事を書くかは行政の批判記事を書くためということもありますが、やはり地域を元気にするためにしています。地域を元気にするためにより多くの購読をお願いします。本日はご清聴いただきありがとうございました。

 

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米山奨学制度研修会報告 井上明夫会友

2013年10月09日

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ミャンマー学習小屋建設について 古庄重生氏

2013年10月02日

ミャンマー学習小屋建設 古庄重生さん

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初めまして古庄ともうします。私は別府からきました団塊世代の65歳です。以前は食品商社の祭原というところに約30年勤め、平成12年から14年にかけて現三菱食品との合併の時に退職させていただきました。若いときからの夢であった「なにか人様のお役に立ちたい」と思ってタイに渡り、一時的にはエイズの撲滅のボランティアをしておりました。けれどもたまたま別府のAPUという大学がありますが、その卒業生の面倒を見ていたらミャンマーに来てみませんか、ということで私みたいな人間でも何か役に立てそうだなということでミャンマーに渡り11年が経過しようとしているところです。橋本会長と知り合ったのは7月までガバナーをしておられた岡村さんの紹介です。

ミャンマーについては世界で一番安全な国だと思います。軍が庶民を押さえつけているためです。ミャンマーの方々は一般人には悪いことをしません。人口は6500万人。首都は皆様ヤンゴンとお思いかもしれませんがネピードというところにあります。「王様の住む町」という意味ですがそこに2006年から変わっております。軍のナンバーワンが自分の事を王様だと思って首都を移したのかも知れません。面積は日本の約1.8倍でインド、バングラディシュ、中国、ラオス、タイの5カ国に囲まれた国です。民族は大小合わせて135の多民族国家です。主な民族はビルマ族70%シャン族10%です。公用語はビルマ語ですが少数民族にはそれぞれの言語があります。イギリスの統治が100年あり英語を出来る人が多いです。この40年間の社会主義と軍政によって、逆に民主化されると内戦が起きるんじゃないかと私は不安視しています。このまま中国は黙っておるかなというのも心配の種です。通貨はチャットという単位です。橋本会長や織田さんはこの前こられたのでわかると思いますが、1000KSが日本円で100円で物価は日本の約10分の1です。しかし家賃、車などはめっぽう高いです。95%は日本の車ですが軍政下では2500ccのランドクルーザーでも一時は3000万しました。今はかなり下がりまして民政に移りつつありますので、車の値段は半分になっております。しかしホテル代は2年前から比べたら約3倍になっております。需要と供給のバランスが完全に崩れております。食については朝はモヒンガー<魚スープ>と言いまして麺を食べます。ミッチーナやシャンや地方の麺類も多く美味しい麺があります。基本的には米の麺です。ラーメンに近いものでありましてたくさんの種類の麺があります。カレー風のやつが多いです。おかずとして食べるんですね。マトンカレーのような感じでカレーと汁と肉を浸けたものが主体です。サラダなんかもいろんな種類のサラダがあります。

2011年より軍政から民政への転換が始まりまして現在は世界の注目の的で世界中から色々な人が来ています。とりわけ日本が一番経済援助をしていると思います。3000億円の円借款を帳消しにしていたりします。日本は何も考えずにお金を出すばっかりで馬鹿じゃないかと口悪くいう人もいます。中国の動きを気にしながら援助した方がいいという意味だと思います。元首都のヤンゴンはものすごい勢いで変わってます。土地も以前の4、5倍しています。みなさん乗せられて色々なものを買ったり売ったりしているみたいですけど、日本のバブルと一緒で崩壊の時がくるんじゃないかと思います。外国から来られた方に私は「今は何もしない方がいいんじゃないですか」と言います。一度崩壊したあとにビジネスなどはやられた方がいいんじゃないかと思います。大手の商社さんも工業団地に進出したりしてその辺の判断は難しいですが、現地にいる私としては後の方がいいんじゃないかと思います。色々なものが値上がりしていて、政府がそれを止めようとしていることも事実ですが、止まらないし、一部の金持ちだけが儲けているのが事実だと思います。

さて学校建設への歩みを話しますけれども(出来たときには)大勢で現地に来ていただきたいと思います。まず学校建設への歩みですが、最初は味の素の社長の紹介でタイに渡ったんです。エイズの関係の仕事に携わったんですが、自分の思うようなことができなくてミャンマーに渡ったのが事実です。その国に住むのであればその国に役に立つことをした方がいい、と言われまして考えていたところ、僧院がミャンマーにはたくさんあるんです。僧院が学校を運営しています。それでミャンマーの僧院に勉強道具を届ける支援をしていました。2008年にサイクロン(台風)がエーヤワデー管区からヤンゴン管区に襲来し、政府の発表では死者6万人行方不明者7万人という状況でしたが、実際に僕たちが後から村々を聞き取り調査しましたら30万人死者が出たという話も有り、ともかくすごい被害が出ました。(被害が出た原因の一つとしては)そういう台風情報が一般庶民には流れていませんでした。私はたまたま政府関連の人から「明日は絶対に外に出たらダメだ」ということを言われていました。2008年5月2~3日にかけて、マンションから民家の屋根がバンバン飛ぶのも見えました。それで(嵐が収まって)すぐ米とラーメンとを大量に買って、エーヤワデー管区に行こうとしたんですが、軍の方から規制が入って外国人は被災地にいけませんでした。フランス海軍も海上で支援物資を持ってきたそうですが入れませんでした。仕方なくミャンマー人にお米とラーメンを託しまして、看護師をやってる日本の女房と娘が「感染病がはやるから早く帰ってきなさい」ということで後ろ髪を引かれる思いで日本に帰国しました。

状況が気になっていましたがたまたま3ヶ月後に現地のユニセフのスタッフから現地を見て下さいと言う要請が入り、現地に入ることが出来ました。初めて入った村がエーヤワデー管区のテンゴン村です。サイクロンで学校は吹っ飛び跡形が少々残っていました。「古庄さん、テンゴン村に学校を作ってください。」と言われ何かしなくてはいけないと思い、学校建設に取り掛かりました。2008年です。75万円で学校ができていました。初めテンゴン村、次にニャンイワン村、3校目はダコン村というところに建設いたしました。生徒は150人程度の小さな村です。

学校を建設するに当たっては労働力を提供してください、ということで村の人たちにはお願いしております。ティーダンゴン村については先生の給料については村の人が払うという事です。先生の給料は一人3000円の2人で6000円です。これまでの2つの村については年間36000円でパゴダ会が負担しています。

学校に行こうにもバス代などのお金が足りない、学用品のお金ないということで、一人1000円あったら学校に行けるというような本当に貧しい国です。ヤンゴンだけは変わりつつありますが、ヤンゴンから一歩はいると日本の終戦後と変わらない本当に貧しい国です。日田ロータリーが4校目、加古川ロータリークラブが5校目になります。大分中央ロータリーの会員ですが柴田産業というガスの会社が創立50周年ということで6校目、大分の県会議員をされてる竹内さんという方のアスパルというグループが7校目、道路企画という会社が8校目を建てていただけるということになりました。本当に感謝しております。村の子供達に変わって御礼いたします。

日田のロータリーさんが建てて頂けるティーダンゴン村はヤンゴンから車で2時間、雨季はボートで1時間半、乾季はバイクで1時間ほどかかるエーヤワデー管区の小さな村です。村の人口は500名で小学生は70名です。現在校舎はありますが、竹とヤシの葉っぱで作った貧相な校舎であります。先生と労働力の提供は村の人たちがやっていただけるという話が住んでおります。もと校長先生をやっていた人もおりまして、教育には非常に熱心なところであります。

最後になりましたが継続することが大事だと思っております。私が70歳になるまでに10校というのが夢でありましたが、65までに8校ですので頑張りたいと思います。私が何でこんなことをしているのか、僕は商社マンでありましたが、数字に追い回されまして、52歳まで会社におりましたが、ミャンマーに来ることで心の健康を取り戻すことができました。私はミャンマーに恩返しをしなきゃいけないなということを思っております。皆さんも現地に来て彼らのエネルギーを吸収して帰りましょう。ミャンマーの小さな村でありますけど、子ども達から元気なエネルギーをいただけます。

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日田ソーシャルビジネス研究会 河津勇成さん

2013年09月04日

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外部卓話

日田ソーシャルビジネス研究会

有限会社まめろし 河津勇成さん

 

みなさんこんにちは。先ほどご紹介いただきました河津勇成と申します。今年41になります。松原ダムの松原で生まれました。日田には中学生までいましたが大分高専にいきまして、卒業後は経団連のマーケティングをやっている会社に就職しましたが、やりたいことがありまして独立しまして東京でまめろしという会社をやっておりました。子どもが生まれまして子育てを田舎でしたいということで、子どもが小学校に上がるのを契機に戻ってまいりました。まめろしという会社の代表は実は家内でありまして、私はただの取締役であります。特に田舎ではなかなか女性が活躍の場がないと思いまして、うちの相方に代表をしてもらっています。

今日はその話ではなくて日田ソーシャルビジネスの話です。ご存知の方も多いと思いますけど、日田杉屋台横丁です。日田杉屋台横丁というのが何でこういう形になったかという話です。ポイントとなることを話したいと思います。そもそもソーシャルビジネスとは何かということです。一つは社会的な問題に取り組むことがミッションです。ただのビジネスであれば金儲けをすればいいのですが、奉仕の気持ちを併せ持つことが大事だと思います。今日は初めてロータリーさんの会合に参加させていただいたんですが、同じように奉仕の気持ちが大事だと思いますが、なかなかそればかりでは続かないので継続のためにはある程度お金が必要だと思うんです。社会的な問題に取り組みながら、事業性を持っていないといけない、また同時に新しい価値を生み出すこと、というのがソーシャルビジネスの定義になっています。詳しくは経産省のホームページをご覧下さい。私どもがなんでこのような話になっているかというと、一昨年日田市さんの方で、わざわざ北海道の帯広から講師を招きましてソーシャルビジネス創出講座を開きました。日田市中からたくさんの人が手を上げまして、40名弱の方が集まり半年間講義を受けました。実際に東京に行くなどして研修会を行ないまして、ワークショップ形式で盛り上がってきました。しかしそこでシュッと終わってしまうというのが役所の仕事でありまして、それじゃまずいと思いまして何らかの形が残さないといけないということになりまして、日田ソーシャルビジネス研究会というのを立ち上げました。日田市および日田市周辺の抱える課題をビジネスの手法を用いて解決するという取り組みです。日田時報の高倉和一郎さんが代表になっております。私は副代表になりました。日田の町や山に何があるのか発掘したり、相談を受けたり、講習会をやって見たり、こういった事業をやっていこうと考えるのが当研究会であります。どういったことをやるかは大きくは4つのテーマを決めております。1つは町や山を活性化するにはどうしたら取り組めるか、2つめは安心して住めるためにはどうしたらいいか、3つめは魅力的な仕事が一杯な日田市になるためにはどうしたらいいか、4つめは子育てにするためにはどうすればいいか、と、こんなことを活動テーマにやっています。4月に課題を出しあいまして今チームを作って行動しています。4つのチームになっておりますが、メンバーは20人弱になってあまり人数もおりませんので今年のテーマは賑わいの創出と福祉ということに焦点をあてて進めています。こういった進捗性の事業でありますが日田市さんの方に採択されて、安心して暮らせる街づくりについてはNPO津江絆クラブとの共同事業を発足いたしました。津江絆クラブは田舎だと頼みづらい家の細かなことを近所の人が集まって若干の謝礼でやっているということであります。魅力的な仕事いっぱいということでは、日田杉プロジェクトを始めまして街中賑わい事業であります。子育てするなら日田ということで絵本の町谷さんという方が廃校になった学校の図書館の本を貸し出しています。日田杉プロジェクトは杉でティッシュ入れをつくったりしています。地域の力を活用ということでは、日田まめ時報というのを立ち上げて、まめはまめろし、時報は日田時報さんの時報でありますが、広報が大事だと思いまして活動しております。ロータリーさんの週報も大事かと思いますが、広く伝えていくことが大事だと思います。津江の方たちの取材に取り組んでおりますが、津江の方達と交わることで元気になっていると思っています。また交わるだけじゃなくて野菜を買い取ろうとしています。杉屋台やまめろしで野菜も販売しておりますが、弁当も作っています。作っている弁当はどのような方に出すかと言いますと都会の方であります。

このスライドが今日の主題になりますが、日田杉屋台横丁でございます。これは日田市との共同事業に手を上げたものでありまして、日田の宝を利用したモニタリング事業であります。日田市にはたくさんの宝がありますが、なかなか利用出来ていないということで、その活用事業です。中心市街地、河川、山間部に賑わいを試験的に作って行こうということであります。モニタリング事業としているのは、ただ単に楽しかっただけでは意味がないので、きちんと調査をして、記録をとって、共有することで広げてそれをお金にしていこうという事です。いきなり事業化すると失敗したときに大変なのでちょっとお金をいただいて、日田市の方から80万円ほど補助金を頂きまして材料などを用意して、うまく行けば事業化して行こうということで動いております。いろんなメンバーがおります。酒屋さんがおります、公務員がおります。洋品店の方もおります。多業種ならではの視点がありますが話すところは一緒で、みんな日田が好きなんですね。それでモニタリング事業を続けております。盛り上げたいところは日田市の中心街は、まさに駅前でそのための屋台横丁です。あとは日田市の河川、山は椿ヶ鼻を思っております。モデルケースとして調査をして成果取りまとめをしようと思っております。屋台横丁は9月の12日から再開しますのでいらっしゃっていただける方はおこしください。物産の販売もしたいと思っております。日田らしいものじゃないと面白くないと思いますので、ガメ煮、たらおさ、鳥の足などを出しております。駅前広場を日田市に借りて、保健所にも許可を取りました。一番多い時で1時間で70人、1週間で700人ぐらい人が来て大変な賑わいができたんじゃないかと思っております。詳細は3月に報告会をします。また賑わいの具体的イメージの2つ目に関してはは三隈川に川床を浮かべてを賑わいを作ろうとしております。国土交通省との関係で、雨の時期に川床を浮かべるというのは安全上の問題がありますので、実際は10月から亀山公園に浮かべてやろうと思っています。そちらでは野立てで日田には甘いものや伝統芸能がありますので、旅館街のお客さんが早めにチェックインしたときなどに遊べるものを作れたらと思っております。3つ目は椿ヶ鼻にキャンプファイアー体験をしたいと申しております。椿ヶ鼻は人気のキャンプスポットでありますが、非常に景色も空気も素敵なんですが9月に10月ではまるっきり人がこない。例えば日本一のキャンプファイアーを試してみようと思っています。安全管理もしなければいけませんが今調整をしています。実際にやってるのは9.5合目というのはハイランドパークがある場所ですが、そこから山頂まで0.5合しかありませんが登山初心者に向けて登山体験活動をやっております。最後になりましたけれども、このスライドが杉屋台横丁の風景であります。この中に実際にこられていただいた方にもおりますし、連日たくさんの方が来てくれました。出しているものは猪肉や、津江の加工所で加工されたもち豚や冠地鶏であります。大分県産のものにこだわって出して見ました。これは日田おなじみのもみじです。真ん中にあるのは津江の屋台から持ってきたのでありますが、ゴーヤとかいろんなものを加えまして、更なることをやって行こうかと思います。先ほどの福祉の話とかあります。今回の杉屋台村の話にしましても、今日の私が話したことは、見ているだけではなく、文句も言っていただきたいし、叱っていただきたいし、市民の失礼ないようにこれからも行なっていきたいと思っています。ご清聴ありがとうございました。

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ダータシ・ノリコさんのトルコの話

2013年08月28日

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みなさんこんにちは。ダータシ紀子と申します。今日は日田の重鎮の皆さんの前で大したお話は出来ないと思いますけれど、今暮らしているアゼルバイジャンの事と、外国で暮らしていて私が思うことをお話ししたいと思います。お手元のプロフィールにも少し書きましたけど、大学を出てから3年留学し、今日一緒に同席させて頂いた主人と、マケドニア、トルコ、アゼルバイジャンに住んできました。今日はアゼルバイジャンについて少しご紹介したいと思いまして、アゼルバイジャンについてわかりやすいニュースレポートを見つけましたので、私がしゃべるよりもわかりやすいと思いますので最初にレポートを見ていただきます(→アゼルバイジャンの動画)。

いかがでしたでしょうか。少しアゼルバイジャンのことをわかっていただたかと思います。なかなか日本には馴染みのない国なので、私も友達からアゼルバイジャンってどこ?アフリカかい?と言われますが、一応こういう国で石油景気に湧いて、現在凄まじい発展をしているところです。毎日窓の外は建築の埃で煙っていて、暮らす者にしては物価が高く暮らしにくいし、井戸を掘っても先に石油が出るようなところなので、石油よりも水の方が高いということで、環境はあまり良くないと思います。暮らしてみてわかるのは、ソビエト時代から残っている賄賂の習慣があったり、大統領がいますけどお父さんから引き継いだある意味独裁政権であったり、情報規制があったり、問題がたくさんあります。しかし逆に住んでいるアゼルバイジャンの人は優しくて、男性は地下鉄で女性に席を譲ってくれますし、ベビーカーなんかもすぐに助けてくれましたし、外国人には暮らしやすく優しくしています。夜も女性一人で歩けるぐらい治安がよく、暮らしやすい国です。人々はとても良い人が多い印象です。

私はアゼルバイジャンにきまして2年になりますが、実は主人は週末しか帰ってきません。私は首都のバクーに住んでいますが主人は遠い現場に住んでいますので週末しか主人が帰ってこないので、気ままな暮らしをしています。どんな生活をしているかというと、同じように外国からきた人との主婦仲間でクッキングクラブをしています。その中にもいろんな国の人がいますので、順番にホストを決めて今日はイラン、明日は日本料理という風に、料理よりも食べるのがメインです。主人もいませんし私一人で暮らしていますので、クッキングクラスを通して、みんな他の国からきて家族や親戚がいませんから、困った時はそのお友達に助けてもらうことが多いです。病気になったら私は日本人ですので、彼女らは見よう見まねでライススープ作ったよ!って持ってきてもらえる人もいますし、英語しかしゃべれないと不自由することが多いので、私は少しアゼル語がしゃべれますので、しゃべれない人のマーケットのお手伝いをしたり、車が壊れたら修理工場に行ったりして、周りの友達と助け合いながら暮らしをしています。これはクッキングクラブで寿司を教えているところです。私は寿司を握れませんでしたが自分でどうにか練習して、寿司を教えられるようになりました。残念なことにキッコーマンの醤油しかありませんので、ぜひマルマタの醤油を買えるようにして欲しいと合原さんに言いました。

私が海外生活でヨーロッパとかの国とかを回って思ったことは、私は日本人であるということです。たくさんの事を言われますが例えばアメリカの人には日本は51番目の州だと言われたこともあります。同時多発テロでは信じられないことに「これは真珠湾攻撃以来のテロだ」と言われてとてもびっくりしました。それから何日かですが日本人に対するアメリカ人の対応も違うんだと感じたこともあります。日本についての質問も良くされるようになりました。この間青年会議所の60周年のイベントで金先生の話を聞きましたが、その中でもっと日本の歴史を勉強しなさいとおっしゃられましたが、まさに自分のことだと思いました。外国の方に原爆の落ちた国なのに原子力発電所があるのはなぜか?などの質問をされた時に困ってしまって、もっと勉強しなければいけないことが多いと思いました。海外生活が長くなるに連れて、外国の人にこれはちがう、こうなんだと言い返せるようになってきていると思いますが、これからももっと勉強して、これからもいろんな国に行く機会があると思いますが、もっと日本のことを情報発信できるような日本人になりたいと思います。先日子どもが生まれました。子供はハーフですが、大きくなってからも情報発信できるように、両国のことを勉強させようと思います。

私の話はこれぐらいですけれども、今日は主人も自分が思う日本のことをしゃべりたいということで、少しお時間をいただきたいと思います。主人もトルコのイスタンブールの大学時代に1回だけロータリーの会合に誘われて行ったということですが、まだ大学生のときで恐れ多くて面食らったということです。今日は日田のロータリーにまさか自分で話ができるなんてと言っています。ハティーダータシと言います。主人がいろいろ話す中で私が訳しながら伝えたいと思います。

 

(ハティーダータシさん)

こんにちは。私はハティーダータシです。私は土木技師をする中でたくさんの国で仕事をするチャンスがありました。私はその中で日本と他の国を比較するチャンスがありました。そのなかにはイスラム教やカトリックの国などいろいろな宗教の国がありました。その国々と日本の大きな違いは、その国々の政治をコントロールするのに宗教の力が大きく関係していることです。その国々の善悪のほとんどが宗教によって決められていると思います。例えば(母国の)トルコで子育てをする場合、子どもは悪いことをすると、神様からバチがあたるよ、天国に行けなくなるよ、と教えられます。また同じようにトルコ人と結婚した日本人女性のお話しですが、彼女のトルコの母(義母)は熱心なイスラム教徒ですが、神(アッラー)がいなかったら(悪いことでも)何でもできるようになって悪い社会になるだという考えです。だからあなたもイスラム教になりなさい!と熱心に彼女にイスラム教を勧めていますが、イスラムの国とかクリスチャンの国とかは、自分を自制するために神様がいて、何かバチを与えられるから悪いことをしないようになる、という考えが自分の中では大きくあります。町の中でも警察がいるから悪いことをしないという人が多いと思います。しかし日本は少し違っていると思います。日本には道徳というのがあります。日本人の中にとても大きいんじゃないかと思います。

天瀬に3ヶ月住んだことがあるんですが、夜中に年配の方が散歩しているのですが奇妙に思いました。それは「夜回り」ということで近所の安全を守っているということでした。

すごく感動しましたが、こういう公共のために自ら働くことは外国ではほとんどありません。だからこそ、日本人は外国で暮らすことが難しいんじゃないかとも思いますが、日本のモラルはすごく高く、悪いことをしちゃいけないのは神がいるからだ、ということではなくて、これは良い、悪い、が教育で教えられていると思います。最近はグローバル化が進んで安く売ろうとかもっと儲かろうという考えがあり、中国とかトルコもそうなのですが安くて売れれば良いという物が多くなっています。しかし日本は商品を今日よければいい、明日よければ良いではなくて、自分の孫の代まで使える製品を作っていると思います。今私たちの間に子どもができましたけれども、トルコの良い所はもちろん、日本の良いところを持って育って欲しいと思います。本日はありがとうございました。

 

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お彼岸など 平野会友

2013年08月28日

専念寺 平野法好 会友 2013年9月18日

 

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本日は週報を見ていただくとわかりますように、江田会友の卓話でしたが急に来れなくなったということで3時間前になって卓話をしてくださいということでしたが、今日はまだましな方です。私は昭和62年の10月31日に入会させて頂きましたが、その時は食事が終わりかけた頃になって、今はもう退会されましたが江藤会友に「何でもいいから卓話してくれ」といきなり言われたことがあります。話は下手で不勉強ですが、職業柄で話せと言われれば1時間でも話す内容があります。今から9年前、(プログラム委員の)宮崎先生の奥さんから雛供養をしませんかといわれまして始めた活動が今では全国規模になっておりますし、江田さんも玉川斎場で誰よりもうちがお世話になっておりますし、うちの門徒さんでありますので(卓話を)断る材料はありませんでした。バタバタ用意してですね、卓話になるかわかりませんがよろしくお願いします。また私は本日2時間しか寝てない悪条件です。なぜなら宗議会議員選挙がありました。参考のためにせっかくならお話をさせて頂きますと私の寺は真宗大谷派ですがいわゆるお東さんです。浄土真宗にも10派あります。最近では東の中でさらに分裂しまして11派あります。日田は天領であった関係で東が多いのです。豊臣秀吉に西から東に強制的に転派されたところが多いのです。日田で西は3つしかありません。その西の照蓮寺さんでは絶対に転派しないと言い張って殺された総代がいると聞いたことがあります。私の所は真宗大谷派(東)であります。日田は数の上では東が多いわけであります。真宗大谷派は全国をいくつかの教区に分けております。行政で言えば都道府県のようなものですが、こちらは日豊教区といいまして昔の豊前豊後が日豊教区になります。その教区を統括するところが宇佐の四日市にありまして、先ほど選挙と申しましたのがこの日豊教区から2人代表者を選出するものであります。私は選挙の立会人ということで一日中投票所におりましたが、1日がこんなに長いものかなということを感じました。教区の中でさらに細かな枠組みを組(そ)といいます。日田は日田組(そ)です。年齢的に仕方ないんですが私がその組長(そちょう)をしております。文字で書いたら「くみちょう」です。今回は浄満寺のご住職が教区の議員に立候補した訳であります。やはり議員は地元から出したいので、私も努力しておったのですが、浄満寺の住職は見事トップで当選を果たしたのであります。その関係で3時から4時ごろまで飲み明かしておったのであります。こういう機会もないので説明をさせて頂くと、寺の建物と敷地を「坊」と申しますが、それで住職の事を坊主と言います。そして坊主の奥さんを坊守といいます。若い住職のことを若いご院家で若院というんです。若院会という組織もあります。昨日の選挙では若院達も選挙運動員として駆り出されまして、そのうちの一人がうちの若院でした。選挙では組長のお寺が投票所になるのが通例ですが組長には投票権がありません。また組長と関連がある若院の運動員がいる所も投票所にはできないということで、願正寺さんをお借りして投票所にいたしまして、朝の7時から夜の7時まで若院と坊守と皆総出で管理しまして、私はそのあと投票の終わった箱を宇佐まで持って行って、それから開票をいたしました。4年前の開票は夜中の三時まで開票がかかりました。昨日は12時に当確が出ました。それから3時過ぎまで飲んでおりましたので体がとても正常じゃありません。

さて本題ですが、資料を2枚お配りしました。1枚はお彼岸の話です。もう1枚は以前卓話をさせて頂いたときに話したかった「辞世の句」であります。そのときは話す暇がなかったんですけど未練がありました。ばたばた資料を探したんですけれども、上人がいよいよ亡くなる時に残した句であります。最初の句は「邪魔になる自力を捨てて、今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」。この句を残して数分のうちに亡くなったということであります。亡くなって121年でありますが、121年前での87歳はそうとう長生きだったと思います。自力他力という言葉を聞かれたことがありますか。特に真宗は親鸞上人が残した教えでありますが、すべては他力からであります。まず生まれてきた時点が他力です。みなさんこの世がおもしろそうだ、と思って生まれてきた人はいないですよね。物心がつくのは3歳ぐらいでありますが、それまでは無意識です。全ては自分が気がつかないところで他人の世話になって生きております。すべてが他力、ということであります。みなさん座られておりますが椅子がなかったら何分同じ格好でいられますか。その椅子も床がなかったら立ってもいられません。空気一呼吸からしてお恵みです。水がないと全てのものはやっていけませんが、水一滴が大事なこともあれば、ありすぎれば去年は日田でも大水害でありましたが、昭和学園も浸かったように災害にもなります。全ては他力によるものです。人間はその中からわずかな自力を出しているに過ぎません。私たちはどうかすると、人にしたことばっかりを言いしてもらったことは忘れます。反対の方がいいのです。してもらったことは忘れずしてあげたことは忘れましょう。しかしなかなか煩悩を抱えている我々にはできません。この句は自力について「今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」と、なかなか死ぬ直前にこのような辞世の句の気持ちにはなれませんよね。二つ目は「出かけてはまた立ち返る時雨哉」。この句は一度危篤状態になりまして元気になった時の詠です。西光寺さんの当時の住職(せっすいさん)と五岳上人はツーツーの仲だったといわれてますが、五岳上人が危篤状態になったと聞いて、慈眼山のふもとの西光寺から隈まで歩いて参りまして「私は(五岳上人が)亡くなったと聞いたので、枕木をあげにきました」とまだ生きている五岳上人に(わざと)言ったそうです。仲良しだからこそ言える言葉を聞いて起き上がって筆と紙をとってこの句を詠んだということです。そして五岳上人の最後の言葉「いざ西へ向かいて 先に出かけ候 そろそろござれ あとの連中」です。これは亡くなる数分前に詠んだ歌だそうです。なかなか死ぬ直前にこうは詠めないと思います。ある宗の高僧は亡くなる数分前に「死にたくない」と3回言って亡くなったという話がありますが、笑い話ではなくそれが私たちの本音だと思います。結局はみんな死が怖いんです。「いざ西へ」とは西方浄土でありますが、先に参りますのであなた方はゆっくりしていてくださいということです。ご紹介させて頂きました。

お彼岸についてですが、中西さんの協力もありまして地元新聞に出さして頂いたこの記事は購読率が高くてかなり好評でした。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが春の彼岸と秋の彼岸で、同じ中日でも秋のお彼岸の方が10度から14度ぐらい温度が高いのです。彼岸は彼(カ)の岸と書きまして、私たちのおる世界は此岸(しがん)と言います。私たちの住んでる国(此の岸)で私たちは口に出さなくても自己中心的になっているんです。案外自分の事は気付かずに人のことはよく見えるんです。お参りするときに蝋燭をともしますが、どうして蝋燭をともすかというと、仏様の教えを光に変えて、自分の姿をしっかり見るということです。そこで本当の自分の姿を見い出すということです。法話で隣の家の障子が破れているのを見て笑っていた人は、自分の家の障子の穴から見ていたという話がありますが、自分の事には気付かない、人のことにはよく気づくんです。去年の5月ですが、スマイルさせていただいたことがありますので記憶がありますが付近で火災が発生いたしました。門徒のお葬式が終わってすぐの初七日のお膳の時で、お寿司のおこぜにいってたら、友達から電話がかかってきて私の寺の納骨堂からものすごい煙が上がっているというんです。距離でいえばおこぜから2、300mなのですが確かに大きな煙が上がっていて、1分か2分かの間にハッと思ったことを覚えているんです。先代の住職が言ったこと思い出したのです。先代は本堂が燃えたら責任をとって本堂の火に飛び込むと言いました。そのことを思い出したわけです。大山に西林寺とありましたけれども前の住職がもう亡くなった寺ですけども、昭和25年に本堂が火災にあって、燃えてしまったんですよ。その時に住職として責任を感じたのでしょうか炎の中に飛び込んだんですよ。幸い近所の人がすぐ引っ張り出して重症は免れましたが、それを思い出したんですね。結局火事は本堂が燃えてるような気がしましたがそうではありませんでした。で、そこからが問題なんですが、「ほっ」としました。いつの間にか無意識のうちに、本堂じゃなくて良かったと思ったんです。つまり極端に言えば自分の家じゃなかったから良かったって事です。この前人の家に行ったら「病はこの家を避けて通れ」とお札がありました。どの宗教かわかりませんが引き破ろうかと思ったぐらいですが、それは病が隣の家ならいいってことじゃないですか。恐ろしいですね。そういう時、まさに御釈迦様の教えを思い出すのですよ。その時にはKCVに専念寺付近って出たので大丈夫かって心配して頂いて、電話がたくさんかかって来ました。若い人も多く集まってきて「野次馬が多いなぁ」といってましたが、隣の人が「お前もその一人じゃないか」と言っていました。自分のことは気づかないってことです。さてあっちとびこっちとびの話でよく分からない話になりましたが、一応時間になりましたのでこの辺で。

 

青柳寿人会友の卓話

2013年08月07日

 

 

会員卓話

青柳会友

六月の夜間例会の時でありましたか、橋本会長とちょっと話をしている中で戦争の話が出まして、いくつか話をしましたところ今は実体験を話をする方がいないので、戦争の話をして頂けたらということでしたら、プログラム委員会の宮崎さんからぜひ卓話をお願いする、すぐ話がきました。そのうちまとめられると思っていましたら時間もなく、今日は思いついたことを適当に話そうと思っています。

私は昭和2年生まれで82歳になります。このクラブでもっとも年寄りになると思います。昭和の一桁の前半生まれは何人かいたと思いますが、その中でも私が一番上だと思います。私が米軍の攻撃から逃げ回ったことも、戦後68年になったということで、記憶も薄くなってきて思い出すこともありますし、どう考えても思い出さないこともありますし、年齢的なものからボケがきているものかはわかりませんが、みなさんにこういうことをお伝えしたいということを思っていると適当な言葉が出てこない。文字にしようとすると半分以上が感じが出て来ない、ということで間違いがあるかもしれませんがお願いします。

ちょうど今100歳の方は大正2年生まれでありますが、大東亜戦争当時はその方達が30歳であります。私が生まれた頃は戦争というものは認識はできていましたが、体験するものは少なかったものでございます。お話することはまず一番に私が物心ついた時には物資が不足しておりまして、すでに配給制度になっておりました。今のちょうど日田の街の中で、筑邦銀行の敷地が日田の米の配給所でした。日田の中で一軒しかお米を取り扱う場所はありませんでした。その場所では家族構成を聞かれて、米をもらっていました。衣類も切符制で、たばこお酒をはじめ、すべてのものが配給制か、切符制でありました。タバコも刻みタバコしかなくて、薄いタバコ紙を巻いて木の台の上で作るのであります。お酒は当然切符制でなくて、お祝いがあると、結婚式や出兵がある時に申請をして市役所からもらってくるものでした。あとは闇で作って飲むしかありませんでした。

昭和16年12月8日に、ニイタカヤマノボレという号令が発令されました。大東亜戦争に突入しましたのがその日です。支那事変が既に始まっておりまして、いよいよ物資が少なくなっておりまして、街中を歩いていても中年がおりません。病人か年寄りか婦人しかおりません。女子も挺身隊と名前がついておりますが、20から40歳の方はほとんどおりません。国防壮年会、国防軍人会などがありましたが、何をやっていたかと言いますと、バスケットボールゴールみたいなものがありまして、その真ん中に網もありませんで穴が空いております。その下に桶がおいてありますが、それを何に使いますかと言いいますと、防火練習です。川から50mぐらいの距離で水を貯めるバケツリレーをしておりまして、その穴にいれるわけであります。町内で対好試合をやっておりまして、水が一番たまった町内が優勝であります。竹の棒を藁縄でまいて長さ消防のまといみたいなものを作りまして、火を叩き消す練習を始めて、まだ空襲のなかった時代ではありますが、今考えると幼稚ではありますが、兵隊さんが頑張っているので、町は自分達で守るということで皆必死にやっておりました。我々は15歳で国を守るんだ、という気持ちでやっておりました。

もう一つは食料の増産であります。ほとんどの街という街の畑でといも作り、野菜作りを行っていました。また土地を持たない人は山田原などの原野を切り開いて蕎麦を作りました。蕎麦は肥料がいらなくてすむということで作りました。その後サトイモ、トイモを作りますが、一回目、二回目まではイモも出来ますが、3回目になると地力が落ちてできません。その当時はそういうことで町内でで仕事に出た記憶がありまして、林工に出て行きました。農繁期はほとんど学校に出て行った記憶がありません。クラス別に指定をされておりました。その部落に行くとじいちゃんばあちゃんが待っておりまして、各農家の加勢をしておりました。そういうことで軍事訓練、開拓、農家の加勢などが主な役割でした。婦人会も防空頭巾ともうしますか、訳40cmの四方ですが、頭にかぶれるように布を作って首をかけて、久留米絣というものでしょうか、衝撃を和らげるために綿を入れたものでしょうか、あとは水筒、それが必需品としてそとに出る時は歩かなければならないということで、かっこのいいものではありませんでした。私は小学校に入った時には靴がありませんでした。私は兄貴がおりましたが、お下がりでまともな服を着たことがありません。非常に貧困な時代でありました。

私は事情がありまして、昭和の17年に入っておりましたが2年で中退をしまして就職をしました。呉海軍施設部ということです。家におればすぐ徴用にかかるということで広島の呉にまいりました。その頃は海軍の飯を食った訳でございます。鎮守府は横須賀鎮守府、佐世保鎮守府、呉鎮守府の3つがありました。それ以外に要港というものがありまして青森の大湊、京都の舞鶴、朝鮮の木浦(モッポ)、台湾の基隆(キールン)の4つの要港がありました。そこに施設部というものが一つずつ存在していました。そこに配属になりました。私の兄が昭和14年に合格して霞ヶ浦海軍航空学校というところにおりまして、少年兵になっておりました。卒業しまして昭和18年の暮れに鹿児島の鹿屋から前線に飛びたつということで電報が参りまして、これは誰かが内緒で送ってくれたのでありますが、夜行列車で何時何分に鳥栖を通るということで面会したいということでありました。そのときに父親が所用がありましたので、お袋がぜひ会いたいということで送っていきましたが、話す時間がありませんので鳥栖から熊本まで一緒に汽車に乗って、汽車の中で兄貴を送り出した記憶があります。兄貴は昭和19年に戦死しましたという報告がありました。佐世保の鎮守府で遺骨を渡すということで、父も母も体調を壊しまして、遺骨の受け取りをしました。その後に呉の方に行きました。呉の方で2ヶ月ぐらい訓練を受けまして。今でいう大分の築城、宇佐、大分、高鍋、宮崎などが海軍の航空基地としてありましたのですけれども、その管轄が九州の佐世保から呉の方に管轄が変わったという関係で大分に19年の6月にそこに転勤になりました。大分の方で働いた訳でありましたけれども、大分の方にはすでに今津留の陸上競技場のところに航空隊が空港でありました。航空廠の跡地は今の岩田学園になっております。空港と航空廠その中間のところに私の事務所がありまして、大きな事務所でした。空港と航空廠の修理工場を往復できるよう大きな道路ができておりまして飛行機が離合できるようになっておりました。道路の枝葉が別れて、ゼロ戦の支援をできるような建物、構造物をそのものが格納できるようになっておりまして、私はその地下に潜って整備する仕事が一番多くなっておりました。山沿いに牧、高城という部落がありましが、今の護国神社あたりが高城というところでありましたが、大分には他に春日浦に水上飛行機の工場がありました。大きなトロッコみたいなもので海の中まで滑り込んでいくしくみになっておりまして、格納庫に引っ張り上げる工場がありました。高城のところにはエンジン専用の修理工場にありました。鉄筋コンクリートの5階建ての建物で、4機か5機かいっぺんに試運転できる建物がありました。飛行機エンジンは丸でございますのでボルトで固定してエンジンをかけています。防音をするためにマフラーがわりに天の方に音が吹き出るようになっております。春日浦には魚雷の工場がありましたが、そこでグラマンB29で死人が多く出まして、直撃弾で人間がどのようになるか、至近弾を受けた時にはどのようになるか、耳は3時間か4時間たたないと聞こえなくなるなどの話があります。また私は陸軍の方で金平糖一つで1ヶ月半鍛われた経験もありまして、まが話は序の口ですが時間が来ましたので、機会がありましたらお願いします。

 

 

原道子会友の卓話

2013年07月24日

8月11日にオープンする介護サービス美和などのお話しをしていただきました。

 

<卓話> 介護サービス美和 開設のご案内    原 道子会友

みなさまこんにちは。本日は若輩者の私がなんと卓話を仰せつかりました。ロータリアンにNOはございませんので、恥ずかしながらお話を進めさせていただきます。なんのお話をと思い悩みました。今回、ロータリーの決まり事である一業種一名ということでこの開業の話はいかがとは思いましたが、旬のことですので、あえてここでお話しさせて頂きます。

今回、介護サービス美和を始めさせていただきます。実は、3年にわたり企画しておりまして、もろもろの事情により(昨年の豪雨など)このように遅れてしまいました。この施設の名前の由来から説明させていただきますね。美和は、院長(原正隆会友)の母、つまり私の祖母になります。108歳まで長生きさせてもらえたのも、私どものスタッフの尽力によるものでございまして、それを少しでも他のかたに貢献できないかということが一番の理由でございます。また、病院内でのお声によりこちらにもそんな施設はないの?なんてお声もあったりして…本格的に施設の計画を始めました。

規模は、デイサービス25名、ショートステイ20名のこじんまりしたものになります。日田という地盤を生かし、木造の建物にいたしました。小さな土地にいっぱいいっぱいの建物ですが、私にとって只今唯一の宝物です。この原石を、宝石にするか、ただの石ころにするかは、これからの私達の頑張りしだいだと考えております。

今更ながら、一代で建物をたて、経営している父を本当に尊敬してしまいました。細かい細部に行き届いた建築をすることが、これだけ大変なんだとしみじみ思うしだいです。

一階のデイと二階のユニットのショートは、狭いのを感じないように、少しだけ天井をあげております。ご利用者様がご自宅にいる雰囲気に近づけるように考えておりますが、なかなか竣工した今になってあぁすればよかったのでは、とか思っています。病院勤務とはまた違いますので、まだまだ未熟ではありますし、不馴れな点が多々ありますが、皆さまに育てていただき、日々勉強したいと思っております。どうか、これから温かい目で見ていただけますと心強いかぎりでございます。

8月11日、原正隆会友のお誕生日にオープンいたします。晴れの門出に相応しいように残された時間を費やしていきます。なんだか、タイムリーなお話をいただいた皆さまに感謝をいたします。お時間をいただき、耳をお貸しくださいましたこと、本当に嬉しく思います。本日はいろいろありがとうございました。これをもちまして、終わりにしたいと思います。

 

 

「2013~14年度 日田ロータリークラブ会長方針」 橋本信一郎会長

2013年07月03日

日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎

「2013~14年度 日田ロータリークラブ会長方針」

 



ロン・D・バートン2013‐2014年度RI会長は「ENGAGE ROTARY CHANGE LIVES(ロータリーを実践し、みんなに豊かな人生を)」を国際ロータリーのテーマに掲げ、次のように話されました。

(以下、抄訳)

世界3,400のロータリークラブは国際レベルから地元レベルまで大小さまざまな方法でこの世界をより良くするために多様な奉仕プロジェクトを実施しています。

このロータリーの土台は、奉仕、親睦、多様性、高潔性、リーダーシップであり、これらの価値観がロータリアンとして私たちを定義づけるものです。

私たちは推薦され、その推薦を受諾することを選択してロータリーに入会しロータリアンとなりました。

ロータリアンである事は、世界における自分の役割を見ることです。ロータリーを真に実践し、ロータリークラブの奉仕と価値観を日々活かす決意をすれば、自分がいかに素晴らしい影響をもたらすことができるかが見えてくるでしょう。それは何よりもあなた自身の人生が一番豊かになるはずです。

皆さんはロータリーの襟ピンを身につけることを選択しました。これからどうするかは、みなさん次第です。

(抄訳おわり)

私は2013~2014年度の日田ロータリークラブ方針を前年に引き続き、

「会員の親睦・友情を第一とし、お互いに成長しながら、グローバルな眼と、より高い志と活力を持ったクラブになる」よう尽力したいと考えます。

日田ロータリークラブの49年の歴史と伝統の重みを大切にしながら、「一眼を足下に、一眼を世界に」をスローガンとし、今年度迎える創立50周年を節目として、地元と、世界にも目を向けた日田ロータリークラブの新しいステージの第一歩としたいと考えます。

「一眼を足下に」

・クラブ会員の親睦・友情を第一とする。

・お互いが括目して成長を楽しめる元気なクラブにする。

・創立50周年を盛大に祝えるように、会員が協力して準備する。

・会員の増強、特に、有為な若い会員や女性会員の入会を推進する。

・これから、日田クラブが第2720地区をリードするようなクラブになる為に、人材の育成と組織の強化を図る。

・ロータリーの綱領など、サーヴィス(奉仕)とは何かを改めて学び、職業を通じたサーヴィスにより、

世のため人のために貢献する。

・前年に開設したゴルフ同好会も活性化し、近隣クラブとの交流などに活用する。

・クラブ会計の正確な記帳と省力化の為、会計ソフトを導入する。

「一眼を世界に」

・機会があれば、出来るだけ海外に出かけ、世界の潮流を体験し理解する。

・中国語の学習クラスを継続する。

・昨年から着手しているミャンマーのティタンゴン村の小学校改修プロジェクトを

50周年記念事業の一つとして実現する。

・海外とのビジネスや交流の経験を卓話してもらうなど、グローバルな目と先見性を養う。

(イメージ)

楽しい・面白い・為になる → 有為な会員が増える → 自他共の成長に繋がる → 強いクラブになる
→ 世の為、人の為にサーヴィス(奉仕)する → 公共イメージが向上する → CHANGE LIVES

ガバナー補佐としての一年を振り返って  ガバナー補佐  佐竹 享

2013年06月19日

2013年6月19日

ガバナー補佐としての一年を振り返って

20122013年度大分第一グループ

ガバナー補佐  佐竹 享


一昨年、9月のチャリティバザー終了後、武内会長から次年度のガバナー補佐就任を要請され、熟慮の末お受けしました。

その後,11月から早速岡村ガバナーエレクトによるガバナー補佐研修会が始まりその後、再度の研修会、新旧ガバナー補佐懇談会、ペッツに橋本新会長と出席、そして、地区協議会と年度が始まる前にかなりハードなスケジュールにびっくりしました。それと共に岡村ガバナーのロータリー対する情熱と熱意を深く感じ、責任の重さを痛感いたしました。

年度が替わり、岡村年度となった7月にさあ、各クラブを挨拶に回ろうとした矢先に北部九州豪雨に見舞われました。豪雨当日、73日は日田中央クラブを

皮切りに回ろうとしましたが、弊社から市内中央部への道路が水没し出席できなくなりました。第2週から中津3クラブを訪問いたしました。10日、中津中央クラブ、11日中津クラブ、12日中津平成クラブと3日連続で中津行です。

豪雨水害の足跡は本当に酷いもので片側通行15,6か所と通常1時間で行く距離を約1時間30分かかりました。

最初の中津中央クラブではほとんど知り合いは無く、緊張しましたが元ガバナー補佐の東納さんがお声をかけて頂きスマイルまで頂きました。それで少しほっとしたところです。

翌日の中津クラブは知り合いも多く少し安心して訪問しました。

何より助かったのは、地区インターアクトの委員長、委員時代からの人たちです。特に当時3年間、委員長をされた今年度幹事の日高さんがよくして頂きました。代々のインターアクト委員長も顔見知りで助かりました。

また、元ガバナー補佐の佐藤さんは私の会長の時のガバナー補佐だったので激励頂き、前川島ガバナー補佐からもアドバイスを頂きました。

その上、中津商工会議所の仲副会頭、細川副会頭もメンバーでした。

仕事の取引先の井上機工の井上社長もメンバーで、皆さんからスマイルをして頂き大変ありがたたったところです。

中津3日目の中津平成クラブも、幹事の辛島元ガバナー補佐以外は知り合いはいなかったのですが、3日連続で少し慣れてきました。

その後、各クラブのクラブ協議会、ガバナー公式訪問直前の訪問、そして最大の行事であるガバナー公式訪問です。中津3クラブは向笠元RI会長を輩出した地域であり伝統もあるクラブばかりで、岡村ガバナーも敬意を表しておられました。日田玖珠3クラブの公式訪問は、懇親会もあったためかなり和やかな公式訪問となりました。また、例会中は、ガバナーご婦人の案内を橋本会長ご婦人、横尾会長ご婦人と私の家内がして頂きました。ガバナーの奥様より大変感謝いただきました。

さて、その他の事では本年度は各種のセミナーが多くあり、そのほとんどにガバナー補佐の出席義務があり大分、熊本によく行きました。かなり勉強させられました。

大分第一グループでは初めての試み各クラブの会長幹事懇談会を公式訪問に向けて行いました。日田玖珠3クラブ、中津3クラブはそれぞれ交流があり顔見知りも多いのですが、日田玖珠と中津ではお互いに交流が無かったのをまず会長幹事から交流を始めようとしました。

また、2月のIM久しぶりに日田での開催となりました。日田ロータリークラブ会友のご協力で無事盛会に終了できました。

会長幹事懇談会のの中で中津3クラブで行っているゴルフ大会を拡大して第一グルーブの大会とすることも出来、69日に開催出来                                       ました。こういったことを続けることで第一グルーブ内の和、交流が深まることを祈念いたします。

この一年間、ガバナー補佐としていろんな方にお会いでき、お世話になりましたが、私にとって今後は経験できないようなことをさせて頂きました。日田ロータリークラブの皆様に厚く御礼申し上げ結びと致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一年を振り返って」 橋本信一郎会長

2013年06月19日

「一年を振り返って」 橋本信一郎

 

今期は「一眼を足下に、一眼を海外に」という会長方針でスタートいたしました。

 

まず、足下ということで申しますと、

上半期に3名の会員が新しく入会していただき総勢54名のクラブになりました。残念ながら、会社の都合で1名退会となり、現在53名ですが、世界的に会員が減少する中で、比較的良い状況であるといえます。来期も有為で楽しい会員が増えて、活力があり、皆が成長できる日田ロータリークラブでありたいと考えます。

また、今期、趣味同好委員会にゴルフ同好会を新設し、毎月1回の開催を基本に懇親を深めておりますが、6月2日には小国ロータリークラブから4名が参加してくれました。これからも、ゴルフを通じて近隣クラブとの交流を深めることにも活用したいと思います。

6月9日には第一グループゴルフコンペが周防灘カントリーで開催され、日田からも10名が参加しましたが、生憎の雨でしたがゴルフを通じて親交を深めました。尚、5月12日の会長杯ゴルフでは、参加者中最高齢の中野会友が優勝、ニアピンも3個獲得されました。

 

さて、この1年間、第2720地区ではセミナー等が多く開催されました。7月12日のブライダル委員会 9月2日の米山記念セミナー、9月9日と10月27日の財団セミナー、7月28日、湯布院青年の家で開催されたインターアクト年次大会、10月13日のローターアクト大会です。

今年に入って、2月9日の熊本でのクラブ管理運営委員会です。

 

3月8・9日には、大分オアシスで「地区大会」が開催され、席上、日田クラブは会員増強優秀クラブの表彰を受けました。

4月21日には人吉で「地区協議会」が開催され、日田からもバスで多数参加いたしました。

 

更には、5月25日の熊本での職業奉仕セミナー、同じく熊本で5月31日、会員増強セミナーが開催されました。

これらのセミナーと式典には、副会長、各委員長と委員さん方が積極的に参加していただきました。セミナーや式典に参加すればロータリーが良く理解できますし、他クラブとの交流もできますので、来期も特に新会員の方たちには、多くご出席して下さいますようお願いします。

 

来期は日田ロータリークラブの創立50周年記念の年です。今期、他クラブから周年行事の案内のあったクラブにはほとんど出席いたしました。

9月15日の別府RC60周年、3月2日の 大分東RC50周年、4月20日の玉名中央ロータリークラ30周年、6月2日の国東ロータリー30周年です。

間もなく、石井委員長の下で50周年実行委員会が立ち上がりますが、来年の5月31日が大盛会、大成功裏に終わることを願います。どうぞ、皆様のご協力をお願いいたします。

 

岡村ガバナー公式訪問も、10月3日、日田クラブをホストとして3クラブ合同で開催されましたが、後の懇親会も含めて活気があり和気藹々とした公式訪問だったと思います。この席で、岡村ガバナーからミャンマー学校改修の窓口になる方をご紹介いただき、早速11月末のミャンマー訪問に繋げることが出来ました。

 

 

次に一方の「海外」に目を転じますと、国際交流のための中国語講座を開講いたしましたが、残念ながら少しずつ受講生が減っています。先に台湾で小籠包を食べに行った方がいいのかなぁとも思っています。

 

そして、50周年記念事業の一つとして、ミャンマーでの校舎建設の現地視察のために、田嶋副会長、織田R財団委員長と私の3名が、11月31日から12月4日まで行って参りました。現在はロータリー財団に補助金申請中ですが、いずれにせよ、雨期明けの10月には着工し12月か1月には開校式が出来るものと考えております。出来るだけ多くの方の参加を期待します。安倍総理も訪問されましたが、あの国は必ず発展する国であると確信します。それだけの素質を持った国民でで、且つ親日国です。

 

3月27日には嘉義玉山ロータリークラブがご婦人同伴で多数日田に来られ、夜間例会で歓待しました。

そのお返しで、4月24日から嘉義玉山扶輪社の14周年記念式典に草野会友、頓宮会友とともに参加して参りましたが、嘉義プリンスホテルの宴会場を借り切った盛大な式典と宴会だったので驚きました。翌日には八田與一技師の烏山頭ダムと日田からも協賛金を提供しました桜の植林を見学して来ました。本当に嘉義玉山の方たちも良くしてくれます。

 

 

川開きの5月26日には、日田市陸上競技場で日田少年ラクビーフェスティバルが開催され日田ロータリークラブが後援しました。大分・別府・中津・玖珠・日田の少年チームが熱戦を繰り広げました。

 

10月24日にパトリアで開かれたチャリティバザーでは過去最高の資金が集まったそうです。

6月12日には献血例会がありましたが、昨年の8月17日には県庁で36年間に及ぶ日田ロータリークラブの献血推進活動に対し厚生労働大臣の団体表彰を7受賞しました。これからも社会奉仕活動の一環として継続して参ります。

 

今期最後の6月28日の例会は二クラブ合同例会といたします。

その冒頭で、第2720地区・日田ロータリークラブ・日田中央ロータリークラブから、日田市に「災害用発電機15台」の贈呈式を行います。

これは第2720地区からの日田市水害お見舞金に、2クラブが金額を加え、日田市の要望である「災害用発電機15台」を贈呈するものです。

これは家庭用のプロパンガス2本で2時間発電できるので、災害時の停電などに非常に役に立つものだと思います。

 

この他にも、ゲスト卓話、会員卓話、職場例会、家族会などの夜間例会等々、各委員長と委員には大変ご苦労様でした。

 

会友各位に支えられまして、無事、1年間を終えることが出来ましたことを感謝いたします。来期1年もよろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創立50周年に向けて 石井会友

2013年05月29日

来年度、日田ロータリークラブは創立50周年を迎えます。記念式典、記念行事等の準備が始まります。

 

 

 

河津建設で職場例会

2013年05月22日

河津会友が経営する河津建設株式会社で職場例会が開かれました。

昼食は同じく河津会友が経営するけんちゃんうどん天神店から出張ランチサービス。

 

河津社長から卓話をいただきました。

 

 

「篆刻あれこれ」笹倉会友

2013年05月15日

 

「海外活動について」鬼武公洋会友

2013年05月08日

世界最大のワイン展示会「プロワイン」に参加するため片道17時間かけ、オランダ経由ドイツ、デュッセルドルフに向かいました。

 

 

プロワインは、世界50カ国から4000社が集まる世界最大の展示会です。圧倒されつつも、朝からわいんを飲みまくり。3日間で訪問したワイナリーは25社、飲んだワインは60杯です。今までのワイナリーさんに加え、新しいワイナリーさんとも親交を深めることが出来ました。

 

 

 

おとぎのがなぜワイン事業を始めたのか。それは、ワイン事業を通じ、現地の文化や人間性、モラルを学び、歴史と伝統に裏付けされた信頼出来るルートを構築し、その信用から日本の商品を紹介しビジネスにつなげたいから。

また、スタッフたちに仕事を通じてリアルに世界を感じ体感させることが、会社や地域にとって大きな財産になると考えています。

地区協議会報告

2013年04月24日

4月20−21日に熊本県人吉市で開かれた地区協議会に参加した会友から報告がありました。

 

 

 

 

 

 

 

「日田市政について」 原田啓介日田市長

2013年04月17日

代理で石松副市長に卓話いただきました。

 

「雑誌月間にちなんで」平野会友

2013年04月03日

今月は雑誌月間です。雑誌といえば毎月発行される「ロータリーの友」が中心だと思われます。しかし、読む方が少ないのが現状ではないかと思われます。

「ロータリーの友」には毎月ロータリーの誕生、日本のロータリー。ロータリーの綱領、四つのテストが記載されています。よく調べてみましたら、私は2007年、2008年と2年連続名前だけですが雑誌委員長になっていました。その時の活動計画書を読んでみます。

 

さて、雑誌のことはそれ位しか話題がありませんので、会長、幹事の認証を頂き、過去に私が全国各地でメイキャップした時のよそのクラブの模様をお話したいと思います。つい最近は3月14日大相撲春場所観戦の際のついでに「大阪中央ロータリークラブ」に行って来ました。今からバナーを回します。このクラブの会長は古谷裕子さんという女性会長で、女性会長のクラブに出席したのは初めてです。バナー交換を致しました。とても活発な行動力のある方のように思われました。昨年、親睦旅行で日田に一泊されたそうです。ホテルの名前は覚えていないそうですが、後でわかりました。最初に受付で「ミリオンランチ」という言葉を初めて聞きました。いわゆる「百万ドル」です。又、ビジターには記念写真をとり、次回の週報に載せるそうです。ある東京のクラブで同じ事があり、その時わざわざ週報を私の家まで送ってくれました。

 

さて、メイキャップでの経験感想を少しばかりお話させて頂きます。・時間厳守(12時半に扉が閉められる)大分のあるクラブ・最近一ヶ月の全員の出席状況を表にして全員に配る(飯塚クラブ)・時間が余った場合は親睦の時間を持ち、1時半まで終わらない(嬉野クラブ)・自分のクラブのロータリーソングを持っている。(本来のロータリーソングと2曲歌う、あるいは童謡を歌う所あり)・ロータリーソングの後に四つのテストを唱和する。・ソングの後お互い握手する。・特に都会地に行くと、エレクトーンが設置され、プロのプレイヤーがロータリーソングは勿論食事が終わるまで演奏を続ける。・又、ソングリーダーがタクトを持って指揮をとる。

 

去る3月13日「創立記念にちなんで」というタイトルで宇野会友より大変為になるお話を聞かせていただきましたが、創立当初の出席服装の厳しかったお話がございました。特に都会地のクラブに行きますと、全員暑かろうと寒かろうときちっと背広を着用しています。(僧侶は衣の場合もある)どこのクラブも1人2人僧侶の会員がいます。鳥栖クラブは僧侶が3人いました。
次に例会の模様をお話させて頂きます。・ほとんどの会場が丸テーブルで、テーブル8人位、委員会毎に分かれ1年間同じ席。・各テーブルにテーブルマスターが決められ指揮を取る。ビジターがいれば名前を記入し自己紹介をする。勿論例会が始まれば会長よりビジター、ゲストの紹介あり。・誕生祝は該当者がプレゼントを受け取った後、前に並びハッピーバースディソングで祝福をする。・週報はほとんどのクラブが地区の例会日、並びに内容を記載している。・卓話の時間は卓話者を中心とした写真を次回の週報に記載している。・又、クラブによってはビジターの挨拶の時間を設ける所もある。

 

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