0年0月0日
会長の時間9 平成25年9月11日(水)
2013年09月11日
会長の時間 田嶋篤副会長 2013.9.11
会長が所用で大分に出張という事で、代わりに挨拶させていただきます。
今日はGGCさんに来訪させて頂いておりますが、GGCさんは平成23年4月に当地に進出されて来られました。特に専務さんは、会議所、労働基準協会、日田工業連合会など、盛んにご尽力されて頂いております。
毎日お世話になっている「もやし」ですが、お世話になっていながら気付いていないことも多いですので、職場例会のお願いを致しましたら快くお受けいただきました。円がこれだけ安くなってきますと、大豆の原料の輸入などが大変だと思いますが、その辺のお話もあると思いますのでよろしくお願いいたします。
9月の予定
2013年09月05日
9月の例会予定
・9月 4日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
外部卓話 日田ソーシャルビジネス研究会
まめろし代表 河津勇成さん
・9月11日(水)午後0時30分 九州ジージーシー株式会社 日田工場
地図
職場例会
・9月18日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
クラブ協議会 ガバナー公式訪問について
・9月24日(火) ※火曜日ですのでご注意ください
ガバナー公式訪問例会 日田市のみくまホテル
(※3クラブ合同)午後5時集合
午後4時30分〜午後5時30分 3クラブ合同 会長・幹事懇談会
午後5時30分〜午後6時30分 ガバナー公式訪問例会(3クラブ合同)
午後5時30分 点鐘
午後6時〜 ガバナーアドレス
午後6時40分 各クラブ記念撮影
午後7時〜 懇親会
・9月25日(水) 休会
会長の時間8 平成25年9月4日(水)
2013年09月04日
「なぜ日本人は悪いことをしないのか」2013.09.4
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
先日、外部卓話していただいたダータス・ノリコさんのお話は大変面白かったです。
いくつも面白いお話があったのですが、特に興味深かったのは、トルコ人のご主人が日本人と話していて気付いたことのようですが「人間は神の存在がなければ悪いことをするのに、なぜ日本人は悪いことをしないのか」ということです。
私は話を聴きながら、新渡戸稲造の名著「武士道」のことを思い出しました。
その第一版(1900、明治33年)の序文の中には次のことが書かれています。
「約10年前、著名なベルギーの法学者ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。
ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
この高名な学者に『あなた方の学校では宗教教育というものがないとおっしゃるのですか』と訊ねられ、私が『ありません』と返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みを止められた。
そして容易に忘れがたい声で『宗教がないとは。一体あなた方はどのようにして子弟に道徳教育を授けるのですか』と繰り返された。その時、私はその質問に愕然とした。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫(みち)たる教訓は学校で受けたものではなかったからだ」
新渡戸博士は自分に善悪の観念を作り出させた様々な要素を分析して、そのような観念を吹き込んだものは武士道であったことに思い当り、英語で「武士道」という本を書いて世に出したのです。
現代日本には既に武士階級もなく、小中学校でも家庭でも道徳教育が盛んに行われているということは寡聞にして知りませんが、世界的にみて、日本の犯罪発生率は低く、来日外国人が認める治安のとても良い国です。
このことについて、我々はもっと誇りに思うと同時に、何故そうなのかをもう一度考えてみても良いのではないかと思います。「武士道」の原文は難しいですが、台湾の李登輝元総統も「武士道解題」という本を書かれています。本棚に積んだままになっていますので改めて読んでみようと思います。
(註)
名著『武士道』は当初英語で書かれ、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行された。やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の武士道は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている。
日田ソーシャルビジネス研究会 河津勇成さん
2013年09月04日

外部卓話
日田ソーシャルビジネス研究会
有限会社まめろし 河津勇成さん
みなさんこんにちは。先ほどご紹介いただきました河津勇成と申します。今年41になります。松原ダムの松原で生まれました。日田には中学生までいましたが大分高専にいきまして、卒業後は経団連のマーケティングをやっている会社に就職しましたが、やりたいことがありまして独立しまして東京でまめろしという会社をやっておりました。子どもが生まれまして子育てを田舎でしたいということで、子どもが小学校に上がるのを契機に戻ってまいりました。まめろしという会社の代表は実は家内でありまして、私はただの取締役であります。特に田舎ではなかなか女性が活躍の場がないと思いまして、うちの相方に代表をしてもらっています。
今日はその話ではなくて日田ソーシャルビジネスの話です。ご存知の方も多いと思いますけど、日田杉屋台横丁です。日田杉屋台横丁というのが何でこういう形になったかという話です。ポイントとなることを話したいと思います。そもそもソーシャルビジネスとは何かということです。一つは社会的な問題に取り組むことがミッションです。ただのビジネスであれば金儲けをすればいいのですが、奉仕の気持ちを併せ持つことが大事だと思います。今日は初めてロータリーさんの会合に参加させていただいたんですが、同じように奉仕の気持ちが大事だと思いますが、なかなかそればかりでは続かないので継続のためにはある程度お金が必要だと思うんです。社会的な問題に取り組みながら、事業性を持っていないといけない、また同時に新しい価値を生み出すこと、というのがソーシャルビジネスの定義になっています。詳しくは経産省のホームページをご覧下さい。私どもがなんでこのような話になっているかというと、一昨年日田市さんの方で、わざわざ北海道の帯広から講師を招きましてソーシャルビジネス創出講座を開きました。日田市中からたくさんの人が手を上げまして、40名弱の方が集まり半年間講義を受けました。実際に東京に行くなどして研修会を行ないまして、ワークショップ形式で盛り上がってきました。しかしそこでシュッと終わってしまうというのが役所の仕事でありまして、それじゃまずいと思いまして何らかの形が残さないといけないということになりまして、日田ソーシャルビジネス研究会というのを立ち上げました。日田市および日田市周辺の抱える課題をビジネスの手法を用いて解決するという取り組みです。日田時報の高倉和一郎さんが代表になっております。私は副代表になりました。日田の町や山に何があるのか発掘したり、相談を受けたり、講習会をやって見たり、こういった事業をやっていこうと考えるのが当研究会であります。どういったことをやるかは大きくは4つのテーマを決めております。1つは町や山を活性化するにはどうしたら取り組めるか、2つめは安心して住めるためにはどうしたらいいか、3つめは魅力的な仕事が一杯な日田市になるためにはどうしたらいいか、4つめは子育てにするためにはどうすればいいか、と、こんなことを活動テーマにやっています。4月に課題を出しあいまして今チームを作って行動しています。4つのチームになっておりますが、メンバーは20人弱になってあまり人数もおりませんので今年のテーマは賑わいの創出と福祉ということに焦点をあてて進めています。こういった進捗性の事業でありますが日田市さんの方に採択されて、安心して暮らせる街づくりについてはNPO津江絆クラブとの共同事業を発足いたしました。津江絆クラブは田舎だと頼みづらい家の細かなことを近所の人が集まって若干の謝礼でやっているということであります。魅力的な仕事いっぱいということでは、日田杉プロジェクトを始めまして街中賑わい事業であります。子育てするなら日田ということで絵本の町谷さんという方が廃校になった学校の図書館の本を貸し出しています。日田杉プロジェクトは杉でティッシュ入れをつくったりしています。地域の力を活用ということでは、日田まめ時報というのを立ち上げて、まめはまめろし、時報は日田時報さんの時報でありますが、広報が大事だと思いまして活動しております。ロータリーさんの週報も大事かと思いますが、広く伝えていくことが大事だと思います。津江の方たちの取材に取り組んでおりますが、津江の方達と交わることで元気になっていると思っています。また交わるだけじゃなくて野菜を買い取ろうとしています。杉屋台やまめろしで野菜も販売しておりますが、弁当も作っています。作っている弁当はどのような方に出すかと言いますと都会の方であります。
このスライドが今日の主題になりますが、日田杉屋台横丁でございます。これは日田市との共同事業に手を上げたものでありまして、日田の宝を利用したモニタリング事業であります。日田市にはたくさんの宝がありますが、なかなか利用出来ていないということで、その活用事業です。中心市街地、河川、山間部に賑わいを試験的に作って行こうということであります。モニタリング事業としているのは、ただ単に楽しかっただけでは意味がないので、きちんと調査をして、記録をとって、共有することで広げてそれをお金にしていこうという事です。いきなり事業化すると失敗したときに大変なのでちょっとお金をいただいて、日田市の方から80万円ほど補助金を頂きまして材料などを用意して、うまく行けば事業化して行こうということで動いております。いろんなメンバーがおります。酒屋さんがおります、公務員がおります。洋品店の方もおります。多業種ならではの視点がありますが話すところは一緒で、みんな日田が好きなんですね。それでモニタリング事業を続けております。盛り上げたいところは日田市の中心街は、まさに駅前でそのための屋台横丁です。あとは日田市の河川、山は椿ヶ鼻を思っております。モデルケースとして調査をして成果取りまとめをしようと思っております。屋台横丁は9月の12日から再開しますのでいらっしゃっていただける方はおこしください。物産の販売もしたいと思っております。日田らしいものじゃないと面白くないと思いますので、ガメ煮、たらおさ、鳥の足などを出しております。駅前広場を日田市に借りて、保健所にも許可を取りました。一番多い時で1時間で70人、1週間で700人ぐらい人が来て大変な賑わいができたんじゃないかと思っております。詳細は3月に報告会をします。また賑わいの具体的イメージの2つ目に関してはは三隈川に川床を浮かべてを賑わいを作ろうとしております。国土交通省との関係で、雨の時期に川床を浮かべるというのは安全上の問題がありますので、実際は10月から亀山公園に浮かべてやろうと思っています。そちらでは野立てで日田には甘いものや伝統芸能がありますので、旅館街のお客さんが早めにチェックインしたときなどに遊べるものを作れたらと思っております。3つ目は椿ヶ鼻にキャンプファイアー体験をしたいと申しております。椿ヶ鼻は人気のキャンプスポットでありますが、非常に景色も空気も素敵なんですが9月に10月ではまるっきり人がこない。例えば日本一のキャンプファイアーを試してみようと思っています。安全管理もしなければいけませんが今調整をしています。実際にやってるのは9.5合目というのはハイランドパークがある場所ですが、そこから山頂まで0.5合しかありませんが登山初心者に向けて登山体験活動をやっております。最後になりましたけれども、このスライドが杉屋台横丁の風景であります。この中に実際にこられていただいた方にもおりますし、連日たくさんの方が来てくれました。出しているものは猪肉や、津江の加工所で加工されたもち豚や冠地鶏であります。大分県産のものにこだわって出して見ました。これは日田おなじみのもみじです。真ん中にあるのは津江の屋台から持ってきたのでありますが、ゴーヤとかいろんなものを加えまして、更なることをやって行こうかと思います。先ほどの福祉の話とかあります。今回の杉屋台村の話にしましても、今日の私が話したことは、見ているだけではなく、文句も言っていただきたいし、叱っていただきたいし、市民の失礼ないようにこれからも行なっていきたいと思っています。ご清聴ありがとうございました。

新入会員 宮崎さん
2013年09月04日


ダータシ・ノリコさんのトルコの話
2013年08月28日

みなさんこんにちは。ダータシ紀子と申します。今日は日田の重鎮の皆さんの前で大したお話は出来ないと思いますけれど、今暮らしているアゼルバイジャンの事と、外国で暮らしていて私が思うことをお話ししたいと思います。お手元のプロフィールにも少し書きましたけど、大学を出てから3年留学し、今日一緒に同席させて頂いた主人と、マケドニア、トルコ、アゼルバイジャンに住んできました。今日はアゼルバイジャンについて少しご紹介したいと思いまして、アゼルバイジャンについてわかりやすいニュースレポートを見つけましたので、私がしゃべるよりもわかりやすいと思いますので最初にレポートを見ていただきます(→アゼルバイジャンの動画)。
いかがでしたでしょうか。少しアゼルバイジャンのことをわかっていただたかと思います。なかなか日本には馴染みのない国なので、私も友達からアゼルバイジャンってどこ?アフリカかい?と言われますが、一応こういう国で石油景気に湧いて、現在凄まじい発展をしているところです。毎日窓の外は建築の埃で煙っていて、暮らす者にしては物価が高く暮らしにくいし、井戸を掘っても先に石油が出るようなところなので、石油よりも水の方が高いということで、環境はあまり良くないと思います。暮らしてみてわかるのは、ソビエト時代から残っている賄賂の習慣があったり、大統領がいますけどお父さんから引き継いだある意味独裁政権であったり、情報規制があったり、問題がたくさんあります。しかし逆に住んでいるアゼルバイジャンの人は優しくて、男性は地下鉄で女性に席を譲ってくれますし、ベビーカーなんかもすぐに助けてくれましたし、外国人には暮らしやすく優しくしています。夜も女性一人で歩けるぐらい治安がよく、暮らしやすい国です。人々はとても良い人が多い印象です。
私はアゼルバイジャンにきまして2年になりますが、実は主人は週末しか帰ってきません。私は首都のバクーに住んでいますが主人は遠い現場に住んでいますので週末しか主人が帰ってこないので、気ままな暮らしをしています。どんな生活をしているかというと、同じように外国からきた人との主婦仲間でクッキングクラブをしています。その中にもいろんな国の人がいますので、順番にホストを決めて今日はイラン、明日は日本料理という風に、料理よりも食べるのがメインです。主人もいませんし私一人で暮らしていますので、クッキングクラスを通して、みんな他の国からきて家族や親戚がいませんから、困った時はそのお友達に助けてもらうことが多いです。病気になったら私は日本人ですので、彼女らは見よう見まねでライススープ作ったよ!って持ってきてもらえる人もいますし、英語しかしゃべれないと不自由することが多いので、私は少しアゼル語がしゃべれますので、しゃべれない人のマーケットのお手伝いをしたり、車が壊れたら修理工場に行ったりして、周りの友達と助け合いながら暮らしをしています。これはクッキングクラブで寿司を教えているところです。私は寿司を握れませんでしたが自分でどうにか練習して、寿司を教えられるようになりました。残念なことにキッコーマンの醤油しかありませんので、ぜひマルマタの醤油を買えるようにして欲しいと合原さんに言いました。
私が海外生活でヨーロッパとかの国とかを回って思ったことは、私は日本人であるということです。たくさんの事を言われますが例えばアメリカの人には日本は51番目の州だと言われたこともあります。同時多発テロでは信じられないことに「これは真珠湾攻撃以来のテロだ」と言われてとてもびっくりしました。それから何日かですが日本人に対するアメリカ人の対応も違うんだと感じたこともあります。日本についての質問も良くされるようになりました。この間青年会議所の60周年のイベントで金先生の話を聞きましたが、その中でもっと日本の歴史を勉強しなさいとおっしゃられましたが、まさに自分のことだと思いました。外国の方に原爆の落ちた国なのに原子力発電所があるのはなぜか?などの質問をされた時に困ってしまって、もっと勉強しなければいけないことが多いと思いました。海外生活が長くなるに連れて、外国の人にこれはちがう、こうなんだと言い返せるようになってきていると思いますが、これからももっと勉強して、これからもいろんな国に行く機会があると思いますが、もっと日本のことを情報発信できるような日本人になりたいと思います。先日子どもが生まれました。子供はハーフですが、大きくなってからも情報発信できるように、両国のことを勉強させようと思います。
私の話はこれぐらいですけれども、今日は主人も自分が思う日本のことをしゃべりたいということで、少しお時間をいただきたいと思います。主人もトルコのイスタンブールの大学時代に1回だけロータリーの会合に誘われて行ったということですが、まだ大学生のときで恐れ多くて面食らったということです。今日は日田のロータリーにまさか自分で話ができるなんてと言っています。ハティーダータシと言います。主人がいろいろ話す中で私が訳しながら伝えたいと思います。
(ハティーダータシさん)
こんにちは。私はハティーダータシです。私は土木技師をする中でたくさんの国で仕事をするチャンスがありました。私はその中で日本と他の国を比較するチャンスがありました。そのなかにはイスラム教やカトリックの国などいろいろな宗教の国がありました。その国々と日本の大きな違いは、その国々の政治をコントロールするのに宗教の力が大きく関係していることです。その国々の善悪のほとんどが宗教によって決められていると思います。例えば(母国の)トルコで子育てをする場合、子どもは悪いことをすると、神様からバチがあたるよ、天国に行けなくなるよ、と教えられます。また同じようにトルコ人と結婚した日本人女性のお話しですが、彼女のトルコの母(義母)は熱心なイスラム教徒ですが、神(アッラー)がいなかったら(悪いことでも)何でもできるようになって悪い社会になるだという考えです。だからあなたもイスラム教になりなさい!と熱心に彼女にイスラム教を勧めていますが、イスラムの国とかクリスチャンの国とかは、自分を自制するために神様がいて、何かバチを与えられるから悪いことをしないようになる、という考えが自分の中では大きくあります。町の中でも警察がいるから悪いことをしないという人が多いと思います。しかし日本は少し違っていると思います。日本には道徳というのがあります。日本人の中にとても大きいんじゃないかと思います。
天瀬に3ヶ月住んだことがあるんですが、夜中に年配の方が散歩しているのですが奇妙に思いました。それは「夜回り」ということで近所の安全を守っているということでした。
すごく感動しましたが、こういう公共のために自ら働くことは外国ではほとんどありません。だからこそ、日本人は外国で暮らすことが難しいんじゃないかとも思いますが、日本のモラルはすごく高く、悪いことをしちゃいけないのは神がいるからだ、ということではなくて、これは良い、悪い、が教育で教えられていると思います。最近はグローバル化が進んで安く売ろうとかもっと儲かろうという考えがあり、中国とかトルコもそうなのですが安くて売れれば良いという物が多くなっています。しかし日本は商品を今日よければいい、明日よければ良いではなくて、自分の孫の代まで使える製品を作っていると思います。今私たちの間に子どもができましたけれども、トルコの良い所はもちろん、日本の良いところを持って育って欲しいと思います。本日はありがとうございました。


会長の時間7 平成25年8月28日(水)
2013年08月28日
「ミャンマー支援について」2013.08.28
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
7月以来、猛暑が続いた日田の夏も、最近の雨で漸く少し涼しくなりました。
夏の疲れが出るのもこれからだと思いますので、どうぞ皆様もご自愛ください。
さて、創立50周年記念事業の一つ話を進めてまいりましたミャンマー・キータンゴン村の学習小屋改修事業につきましてご報告いたします。
今年の春先に、第2720地区ロータリー財団に地区補助金35万円の申請をいたしましたが、一旦ストップがかかりました。ミャンマーがアメリカの制裁国であるという理由です。今期から「未来の夢計画」の一環として地区補助金は地区で使いやすいようなったと理解しておりましたので、地区補助金の申請がアメリカにまで行って審査を受けるというのは意外でした。地区補助金とはいえ、制裁国への補助金は不可とするなどの一定のルールがあったのかもしれません。
その間、第2720地区の木村初ロータリー財団委員長が東京の日本支部と本件を通すために色々ご尽力をいただいて、最終的にアメリカのロータリー財団本部の審査を受けることになりました。
アメリカから「米国財務省資産管理局審査用チェックリスト」の提出を求められたのには驚きました。11項目のチェックリストを織田財団委員長とミャンマー窓口とのメールのやり取りで修正をしながら何度かアメリカ本部に提出しました。
このとき幸運だったのは、アメリカのロータリー財団本部に和田はるかさんという日本人女性がいたことです。従って、やり取りは全て日本語で出来たので意思疎通がとても良く出来ました。和田さんに伝えたのは、実際に現地を視察したこと、ミャンマー人が貧しくても非常に教育熱心で将来有望な民族であること、この国に自由と民主主義を根付かせて東南アジアの発展に寄与させることの重要性等でした。和田さんが、アメリカ本部で同僚と上司に強力に説得に当たって頂いたことと推測します。
その結果、先日、漸く財団から承認が下りました。
ミャンマーへの事業申請も初めてなら、承認も世界で初めてのことのようです。
既にオバマ大統領もミャンマーを訪問しておりますし、現在でもヤンゴンには大きなアメリカ大使館があります。やがて、ミャンマーへの制裁も解除されるものと確信しますが、ロータリークラブのないミャンマーへ世界で初めて財団の補助金を使用できたということを大変うれしく思います。
これからは他のロータリークラブからもミャンマーへの支援が増えるものと期待します。
改めまして、木村財団委員長、東京の関係各位、和田はるかさんとアメリカ財団本部の各位に感謝と敬意を表します。
これから、支援の具体化に向け行動します。10月には現地を訪問する予定です。
お彼岸など 平野会友
2013年08月28日
専念寺 平野法好 会友 2013年9月18日


本日は週報を見ていただくとわかりますように、江田会友の卓話でしたが急に来れなくなったということで3時間前になって卓話をしてくださいということでしたが、今日はまだましな方です。私は昭和62年の10月31日に入会させて頂きましたが、その時は食事が終わりかけた頃になって、今はもう退会されましたが江藤会友に「何でもいいから卓話してくれ」といきなり言われたことがあります。話は下手で不勉強ですが、職業柄で話せと言われれば1時間でも話す内容があります。今から9年前、(プログラム委員の)宮崎先生の奥さんから雛供養をしませんかといわれまして始めた活動が今では全国規模になっておりますし、江田さんも玉川斎場で誰よりもうちがお世話になっておりますし、うちの門徒さんでありますので(卓話を)断る材料はありませんでした。バタバタ用意してですね、卓話になるかわかりませんがよろしくお願いします。また私は本日2時間しか寝てない悪条件です。なぜなら宗議会議員選挙がありました。参考のためにせっかくならお話をさせて頂きますと私の寺は真宗大谷派ですがいわゆるお東さんです。浄土真宗にも10派あります。最近では東の中でさらに分裂しまして11派あります。日田は天領であった関係で東が多いのです。豊臣秀吉に西から東に強制的に転派されたところが多いのです。日田で西は3つしかありません。その西の照蓮寺さんでは絶対に転派しないと言い張って殺された総代がいると聞いたことがあります。私の所は真宗大谷派(東)であります。日田は数の上では東が多いわけであります。真宗大谷派は全国をいくつかの教区に分けております。行政で言えば都道府県のようなものですが、こちらは日豊教区といいまして昔の豊前豊後が日豊教区になります。その教区を統括するところが宇佐の四日市にありまして、先ほど選挙と申しましたのがこの日豊教区から2人代表者を選出するものであります。私は選挙の立会人ということで一日中投票所におりましたが、1日がこんなに長いものかなということを感じました。教区の中でさらに細かな枠組みを組(そ)といいます。日田は日田組(そ)です。年齢的に仕方ないんですが私がその組長(そちょう)をしております。文字で書いたら「くみちょう」です。今回は浄満寺のご住職が教区の議員に立候補した訳であります。やはり議員は地元から出したいので、私も努力しておったのですが、浄満寺の住職は見事トップで当選を果たしたのであります。その関係で3時から4時ごろまで飲み明かしておったのであります。こういう機会もないので説明をさせて頂くと、寺の建物と敷地を「坊」と申しますが、それで住職の事を坊主と言います。そして坊主の奥さんを坊守といいます。若い住職のことを若いご院家で若院というんです。若院会という組織もあります。昨日の選挙では若院達も選挙運動員として駆り出されまして、そのうちの一人がうちの若院でした。選挙では組長のお寺が投票所になるのが通例ですが組長には投票権がありません。また組長と関連がある若院の運動員がいる所も投票所にはできないということで、願正寺さんをお借りして投票所にいたしまして、朝の7時から夜の7時まで若院と坊守と皆総出で管理しまして、私はそのあと投票の終わった箱を宇佐まで持って行って、それから開票をいたしました。4年前の開票は夜中の三時まで開票がかかりました。昨日は12時に当確が出ました。それから3時過ぎまで飲んでおりましたので体がとても正常じゃありません。
さて本題ですが、資料を2枚お配りしました。1枚はお彼岸の話です。もう1枚は以前卓話をさせて頂いたときに話したかった「辞世の句」であります。そのときは話す暇がなかったんですけど未練がありました。ばたばた資料を探したんですけれども、上人がいよいよ亡くなる時に残した句であります。最初の句は「邪魔になる自力を捨てて、今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」。この句を残して数分のうちに亡くなったということであります。亡くなって121年でありますが、121年前での87歳はそうとう長生きだったと思います。自力他力という言葉を聞かれたことがありますか。特に真宗は親鸞上人が残した教えでありますが、すべては他力からであります。まず生まれてきた時点が他力です。みなさんこの世がおもしろそうだ、と思って生まれてきた人はいないですよね。物心がつくのは3歳ぐらいでありますが、それまでは無意識です。全ては自分が気がつかないところで他人の世話になって生きております。すべてが他力、ということであります。みなさん座られておりますが椅子がなかったら何分同じ格好でいられますか。その椅子も床がなかったら立ってもいられません。空気一呼吸からしてお恵みです。水がないと全てのものはやっていけませんが、水一滴が大事なこともあれば、ありすぎれば去年は日田でも大水害でありましたが、昭和学園も浸かったように災害にもなります。全ては他力によるものです。人間はその中からわずかな自力を出しているに過ぎません。私たちはどうかすると、人にしたことばっかりを言いしてもらったことは忘れます。反対の方がいいのです。してもらったことは忘れずしてあげたことは忘れましょう。しかしなかなか煩悩を抱えている我々にはできません。この句は自力について「今ははや弥陀の御国のたのもしき哉」と、なかなか死ぬ直前にこのような辞世の句の気持ちにはなれませんよね。二つ目は「出かけてはまた立ち返る時雨哉」。この句は一度危篤状態になりまして元気になった時の詠です。西光寺さんの当時の住職(せっすいさん)と五岳上人はツーツーの仲だったといわれてますが、五岳上人が危篤状態になったと聞いて、慈眼山のふもとの西光寺から隈まで歩いて参りまして「私は(五岳上人が)亡くなったと聞いたので、枕木をあげにきました」とまだ生きている五岳上人に(わざと)言ったそうです。仲良しだからこそ言える言葉を聞いて起き上がって筆と紙をとってこの句を詠んだということです。そして五岳上人の最後の言葉「いざ西へ向かいて 先に出かけ候 そろそろござれ あとの連中」です。これは亡くなる数分前に詠んだ歌だそうです。なかなか死ぬ直前にこうは詠めないと思います。ある宗の高僧は亡くなる数分前に「死にたくない」と3回言って亡くなったという話がありますが、笑い話ではなくそれが私たちの本音だと思います。結局はみんな死が怖いんです。「いざ西へ」とは西方浄土でありますが、先に参りますのであなた方はゆっくりしていてくださいということです。ご紹介させて頂きました。
お彼岸についてですが、中西さんの協力もありまして地元新聞に出さして頂いたこの記事は購読率が高くてかなり好評でした。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが春の彼岸と秋の彼岸で、同じ中日でも秋のお彼岸の方が10度から14度ぐらい温度が高いのです。彼岸は彼(カ)の岸と書きまして、私たちのおる世界は此岸(しがん)と言います。私たちの住んでる国(此の岸)で私たちは口に出さなくても自己中心的になっているんです。案外自分の事は気付かずに人のことはよく見えるんです。お参りするときに蝋燭をともしますが、どうして蝋燭をともすかというと、仏様の教えを光に変えて、自分の姿をしっかり見るということです。そこで本当の自分の姿を見い出すということです。法話で隣の家の障子が破れているのを見て笑っていた人は、自分の家の障子の穴から見ていたという話がありますが、自分の事には気付かない、人のことにはよく気づくんです。去年の5月ですが、スマイルさせていただいたことがありますので記憶がありますが付近で火災が発生いたしました。門徒のお葬式が終わってすぐの初七日のお膳の時で、お寿司のおこぜにいってたら、友達から電話がかかってきて私の寺の納骨堂からものすごい煙が上がっているというんです。距離でいえばおこぜから2、300mなのですが確かに大きな煙が上がっていて、1分か2分かの間にハッと思ったことを覚えているんです。先代の住職が言ったこと思い出したのです。先代は本堂が燃えたら責任をとって本堂の火に飛び込むと言いました。そのことを思い出したわけです。大山に西林寺とありましたけれども前の住職がもう亡くなった寺ですけども、昭和25年に本堂が火災にあって、燃えてしまったんですよ。その時に住職として責任を感じたのでしょうか炎の中に飛び込んだんですよ。幸い近所の人がすぐ引っ張り出して重症は免れましたが、それを思い出したんですね。結局火事は本堂が燃えてるような気がしましたがそうではありませんでした。で、そこからが問題なんですが、「ほっ」としました。いつの間にか無意識のうちに、本堂じゃなくて良かったと思ったんです。つまり極端に言えば自分の家じゃなかったから良かったって事です。この前人の家に行ったら「病はこの家を避けて通れ」とお札がありました。どの宗教かわかりませんが引き破ろうかと思ったぐらいですが、それは病が隣の家ならいいってことじゃないですか。恐ろしいですね。そういう時、まさに御釈迦様の教えを思い出すのですよ。その時にはKCVに専念寺付近って出たので大丈夫かって心配して頂いて、電話がたくさんかかって来ました。若い人も多く集まってきて「野次馬が多いなぁ」といってましたが、隣の人が「お前もその一人じゃないか」と言っていました。自分のことは気づかないってことです。さてあっちとびこっちとびの話でよく分からない話になりましたが、一応時間になりましたのでこの辺で。
ミャンマー学習小屋改修プロジェクトに補助金が認可
2013年08月28日
織田ロータリー財団委員長
先ほども会長から報告がありましたように、ミャンマー学習小屋改修プロジェクトに、補助金が認可されました。我々も少しホッとしているところであります。本部と橋本会長の熱い対話がありまして、重い扉が開いたのであります。地区の広報木村部長ほかご尽力頂いた方に大変感謝しています。
会長の時間6 平成25年8月21日(水)
2013年08月21日
日田ロータリークラブ副会長 田嶋 篤
会長のスローガンの一つでもあります親睦ということでありますが、久しぶりの夜間例会でもあります。遊船も亀山亭さんが新造船の船を出してくれるということですので、ゆっくり楽しんで親睦を深めて頂きたいと思います。
2時間くらいの短い時間ではありますが、よろしくお願いします。
会長の時間5 平成25年8月7日(水)
2013年08月07日
2013.08.07「歴史と体験」
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
終戦の日が近くなりました。戦争は20年8月15日に終わりましたが、私は昭和22年の生まれですから、本や写真などで知った知識としては知っていますが、僅か1年半前に終わった戦争のことは体験としては全く分かりません。
物心のついた頃(多分昭和26年前後、日本に主権のない占領下でしたが)のことは少し分かります。
例えば、米軍の戦車を何両も積んだ貨車が、日田駅で流される「アニーローリー」の曲に送られ、夕日に照らされながら久留米方面に向かっていた光景が今でも目に浮かびます。今思えば、まさに敗戦国そのものですが、当時は分かるはずもありませんでした。
知識としての歴史は遠い昔のことのように思えますが、例えば、昭和20年時点でいえば、戊辰戦争から77年、日清戦争から50年、日露戦争から40年しか経っていません。
ですから、最近まで少なくとも日清・日露戦争を体験された方が沢山おられた訳です。
昭和40年代頃はまだまだ明治生まれの方は沢山いらっしゃいました。
同じように、昭和40年以降に生まれた人は、終戦時のことはもとより、昭和20年代30年代のことも肌身に感じることは出来ません。
少しでも、前の世代が次の世代に体験を語り継いでいくことが、歴史を学ぶ上でも大いに役に立つものと思います。
ところで、奥野誠亮(おくの・せいすけ)さんという大正2年生まれの100歳の元政治家がいらっしゃいます。この方が、先日こういうことを新聞に書いていました。
「占領中は、日本の国会も政府も自主的活動はできませんでした。国会へ法律を出すのも、審議で修正するのも、その議決が賛成でも反対でも、事前に連合国軍総令部(GHQ)の承認を受けなければならなかった。憲法も同じです。こういうことを若い人に知ってほしい」
私は、そこまで国会がアメリカ軍のチェックを受けていたとは全く知りませんでしたが、考えてみれば、主権が無いのですから当然のことです。
今日は、青柳会友の体験談を楽しみにしたいと思います。
青柳寿人会友の卓話
2013年08月07日

会員卓話
青柳会友
六月の夜間例会の時でありましたか、橋本会長とちょっと話をしている中で戦争の話が出まして、いくつか話をしましたところ今は実体験を話をする方がいないので、戦争の話をして頂けたらということでしたら、プログラム委員会の宮崎さんからぜひ卓話をお願いする、すぐ話がきました。そのうちまとめられると思っていましたら時間もなく、今日は思いついたことを適当に話そうと思っています。
私は昭和2年生まれで82歳になります。このクラブでもっとも年寄りになると思います。昭和の一桁の前半生まれは何人かいたと思いますが、その中でも私が一番上だと思います。私が米軍の攻撃から逃げ回ったことも、戦後68年になったということで、記憶も薄くなってきて思い出すこともありますし、どう考えても思い出さないこともありますし、年齢的なものからボケがきているものかはわかりませんが、みなさんにこういうことをお伝えしたいということを思っていると適当な言葉が出てこない。文字にしようとすると半分以上が感じが出て来ない、ということで間違いがあるかもしれませんがお願いします。
ちょうど今100歳の方は大正2年生まれでありますが、大東亜戦争当時はその方達が30歳であります。私が生まれた頃は戦争というものは認識はできていましたが、体験するものは少なかったものでございます。お話することはまず一番に私が物心ついた時には物資が不足しておりまして、すでに配給制度になっておりました。今のちょうど日田の街の中で、筑邦銀行の敷地が日田の米の配給所でした。日田の中で一軒しかお米を取り扱う場所はありませんでした。その場所では家族構成を聞かれて、米をもらっていました。衣類も切符制で、たばこお酒をはじめ、すべてのものが配給制か、切符制でありました。タバコも刻みタバコしかなくて、薄いタバコ紙を巻いて木の台の上で作るのであります。お酒は当然切符制でなくて、お祝いがあると、結婚式や出兵がある時に申請をして市役所からもらってくるものでした。あとは闇で作って飲むしかありませんでした。
昭和16年12月8日に、ニイタカヤマノボレという号令が発令されました。大東亜戦争に突入しましたのがその日です。支那事変が既に始まっておりまして、いよいよ物資が少なくなっておりまして、街中を歩いていても中年がおりません。病人か年寄りか婦人しかおりません。女子も挺身隊と名前がついておりますが、20から40歳の方はほとんどおりません。国防壮年会、国防軍人会などがありましたが、何をやっていたかと言いますと、バスケットボールゴールみたいなものがありまして、その真ん中に網もありませんで穴が空いております。その下に桶がおいてありますが、それを何に使いますかと言いいますと、防火練習です。川から50mぐらいの距離で水を貯めるバケツリレーをしておりまして、その穴にいれるわけであります。町内で対好試合をやっておりまして、水が一番たまった町内が優勝であります。竹の棒を藁縄でまいて長さ消防のまといみたいなものを作りまして、火を叩き消す練習を始めて、まだ空襲のなかった時代ではありますが、今考えると幼稚ではありますが、兵隊さんが頑張っているので、町は自分達で守るということで皆必死にやっておりました。我々は15歳で国を守るんだ、という気持ちでやっておりました。
もう一つは食料の増産であります。ほとんどの街という街の畑でといも作り、野菜作りを行っていました。また土地を持たない人は山田原などの原野を切り開いて蕎麦を作りました。蕎麦は肥料がいらなくてすむということで作りました。その後サトイモ、トイモを作りますが、一回目、二回目まではイモも出来ますが、3回目になると地力が落ちてできません。その当時はそういうことで町内でで仕事に出た記憶がありまして、林工に出て行きました。農繁期はほとんど学校に出て行った記憶がありません。クラス別に指定をされておりました。その部落に行くとじいちゃんばあちゃんが待っておりまして、各農家の加勢をしておりました。そういうことで軍事訓練、開拓、農家の加勢などが主な役割でした。婦人会も防空頭巾ともうしますか、訳40cmの四方ですが、頭にかぶれるように布を作って首をかけて、久留米絣というものでしょうか、衝撃を和らげるために綿を入れたものでしょうか、あとは水筒、それが必需品としてそとに出る時は歩かなければならないということで、かっこのいいものではありませんでした。私は小学校に入った時には靴がありませんでした。私は兄貴がおりましたが、お下がりでまともな服を着たことがありません。非常に貧困な時代でありました。
私は事情がありまして、昭和の17年に入っておりましたが2年で中退をしまして就職をしました。呉海軍施設部ということです。家におればすぐ徴用にかかるということで広島の呉にまいりました。その頃は海軍の飯を食った訳でございます。鎮守府は横須賀鎮守府、佐世保鎮守府、呉鎮守府の3つがありました。それ以外に要港というものがありまして青森の大湊、京都の舞鶴、朝鮮の木浦(モッポ)、台湾の基隆(キールン)の4つの要港がありました。そこに施設部というものが一つずつ存在していました。そこに配属になりました。私の兄が昭和14年に合格して霞ヶ浦海軍航空学校というところにおりまして、少年兵になっておりました。卒業しまして昭和18年の暮れに鹿児島の鹿屋から前線に飛びたつということで電報が参りまして、これは誰かが内緒で送ってくれたのでありますが、夜行列車で何時何分に鳥栖を通るということで面会したいということでありました。そのときに父親が所用がありましたので、お袋がぜひ会いたいということで送っていきましたが、話す時間がありませんので鳥栖から熊本まで一緒に汽車に乗って、汽車の中で兄貴を送り出した記憶があります。兄貴は昭和19年に戦死しましたという報告がありました。佐世保の鎮守府で遺骨を渡すということで、父も母も体調を壊しまして、遺骨の受け取りをしました。その後に呉の方に行きました。呉の方で2ヶ月ぐらい訓練を受けまして。今でいう大分の築城、宇佐、大分、高鍋、宮崎などが海軍の航空基地としてありましたのですけれども、その管轄が九州の佐世保から呉の方に管轄が変わったという関係で大分に19年の6月にそこに転勤になりました。大分の方で働いた訳でありましたけれども、大分の方にはすでに今津留の陸上競技場のところに航空隊が空港でありました。航空廠の跡地は今の岩田学園になっております。空港と航空廠その中間のところに私の事務所がありまして、大きな事務所でした。空港と航空廠の修理工場を往復できるよう大きな道路ができておりまして飛行機が離合できるようになっておりました。道路の枝葉が別れて、ゼロ戦の支援をできるような建物、構造物をそのものが格納できるようになっておりまして、私はその地下に潜って整備する仕事が一番多くなっておりました。山沿いに牧、高城という部落がありましが、今の護国神社あたりが高城というところでありましたが、大分には他に春日浦に水上飛行機の工場がありました。大きなトロッコみたいなもので海の中まで滑り込んでいくしくみになっておりまして、格納庫に引っ張り上げる工場がありました。高城のところにはエンジン専用の修理工場にありました。鉄筋コンクリートの5階建ての建物で、4機か5機かいっぺんに試運転できる建物がありました。飛行機エンジンは丸でございますのでボルトで固定してエンジンをかけています。防音をするためにマフラーがわりに天の方に音が吹き出るようになっております。春日浦には魚雷の工場がありましたが、そこでグラマンB29で死人が多く出まして、直撃弾で人間がどのようになるか、至近弾を受けた時にはどのようになるか、耳は3時間か4時間たたないと聞こえなくなるなどの話があります。また私は陸軍の方で金平糖一つで1ヶ月半鍛われた経験もありまして、まが話は序の口ですが時間が来ましたので、機会がありましたらお願いします。

8月の予定
2013年08月07日
8月の例会予定
8月 7日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
会員卓話 青柳会友
8月14日(水)
お盆休会
8月21日(水)午後6時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
納涼例会 亀山亭屋形船
8月28日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
外部卓話 ダーガス・ノリコさん トルコの話
日田青年会議所60周年の案内に来訪
2013年08月07日
社団法人 日田青年会議所から3名の方が、創立60周年のPRに来訪されました。
記念講演は、TVでも活躍中の 金 美齢氏 と、別冊正論の編集長 上島嘉郎氏の
日本人としての誇り
-未来を切拓く為の活きる力-
日時:平成25年8月18日(日)13:30~
会場:パトリア日田
です。


原道子会友の卓話
2013年07月24日
8月11日にオープンする介護サービス美和などのお話しをしていただきました。
<卓話> 介護サービス美和 開設のご案内 原 道子会友
みなさまこんにちは。本日は若輩者の私がなんと卓話を仰せつかりました。ロータリアンにNOはございませんので、恥ずかしながらお話を進めさせていただきます。なんのお話をと思い悩みました。今回、ロータリーの決まり事である一業種一名ということでこの開業の話はいかがとは思いましたが、旬のことですので、あえてここでお話しさせて頂きます。
今回、介護サービス美和を始めさせていただきます。実は、3年にわたり企画しておりまして、もろもろの事情により(昨年の豪雨など)このように遅れてしまいました。この施設の名前の由来から説明させていただきますね。美和は、院長(原正隆会友)の母、つまり私の祖母になります。108歳まで長生きさせてもらえたのも、私どものスタッフの尽力によるものでございまして、それを少しでも他のかたに貢献できないかということが一番の理由でございます。また、病院内でのお声によりこちらにもそんな施設はないの?なんてお声もあったりして…本格的に施設の計画を始めました。
規模は、デイサービス25名、ショートステイ20名のこじんまりしたものになります。日田という地盤を生かし、木造の建物にいたしました。小さな土地にいっぱいいっぱいの建物ですが、私にとって只今唯一の宝物です。この原石を、宝石にするか、ただの石ころにするかは、これからの私達の頑張りしだいだと考えております。
今更ながら、一代で建物をたて、経営している父を本当に尊敬してしまいました。細かい細部に行き届いた建築をすることが、これだけ大変なんだとしみじみ思うしだいです。
一階のデイと二階のユニットのショートは、狭いのを感じないように、少しだけ天井をあげております。ご利用者様がご自宅にいる雰囲気に近づけるように考えておりますが、なかなか竣工した今になってあぁすればよかったのでは、とか思っています。病院勤務とはまた違いますので、まだまだ未熟ではありますし、不馴れな点が多々ありますが、皆さまに育てていただき、日々勉強したいと思っております。どうか、これから温かい目で見ていただけますと心強いかぎりでございます。
8月11日、原正隆会友のお誕生日にオープンいたします。晴れの門出に相応しいように残された時間を費やしていきます。なんだか、タイムリーなお話をいただいた皆さまに感謝をいたします。お時間をいただき、耳をお貸しくださいましたこと、本当に嬉しく思います。本日はいろいろありがとうございました。これをもちまして、終わりにしたいと思います。


玖珠RC会長・幹事来訪
2013年07月24日
玖珠ロータリークラブの吉光会長と日野幹事が来訪されました。

2013九州B-1グランプリin日田大会をPR
2013年07月24日
日田市観光協会の木下周さんが「2013九州B-1グランプリin日田大会」のPRと協力の依頼に来訪されました。
2013九州B-1グランプリin日田大会のフェイスブックページ


会長の時間4 平成25年7月24日(水)
2013年07月24日
「四つのテスト」 2013.07.24
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
暑い日が続きます。先日、ウナギを食べにいって、土用って何だろうと思って調べてみました。
土用とは、立夏・立秋・立冬・立春の直前約18日間のことだそうです。
今年は7月19日が土用の入りで、7月23日が大暑、8月7日が立秋です。
8月7日といえば、まだまだ暑い盛りですが、そこを秋の初めとするとするシナの古典は素晴らしい。現象は盛りに見えても人間の感じないところで物事は変化を始めているということでしょうか。
深い哲学があると思います。
さて、日本では土用の丑の日に、暑い時期を乗り切るためにウナギを食べる習慣があります。
この由来については諸説ありますが、平賀源内(1728年 – 1780年)が発案したという説が最もよく知られています。
それによると、商売がうまく行かないウナギ屋が、夏に売れないウナギを何とか売るため源内の所に相談に行くと、源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めました。すると、そのウナギ屋は大変繁盛し、他のウナギ屋もそれを真似るようになって、土用の丑の日にウナギを食べる風習が定着したといわれています。
最近では乱獲が過ぎてウナギがいなくなるのではないかとも言われます。ダムや堰もウナギが川を遡上できない原因の一つです。マリアナ沖で生まれたウナギが遠路日本にたどり着き、人工の堰の手前で死んでしまうのは余りに不憫です。ヨーロッパではウナギ遡上用の水路が設備されているのをテレビで見ましたが、日本も何らかの対策があって良いのではと思います。
さて、週報の絵の上にスペースがありますので、今週から四つのテストを掲載することにしました。昨日、日田中央ロータリークラブを幹事と訪問して参りましたが、彼のクラブでは、例会の初めに毎回、職業奉仕委員長が先導して唱和していました。
この四つのテストを載せるにあたって、スペル等に間違いがあってはいけないと思い、インターットで調べましたところ、各クラブにかなりバラツキがありました。複数であったり単数であったり、
「the」があったり、なかったりです。
いまや、「四つのテスト」は100か国以上の言葉に翻訳されているようですが、この日本語訳についても十分なものかどうかは分かりません。ですから、まずは原文に当たる方がその真意を理解するのに正確かと思います。
例えば、「言行はこれに照らしてから」も英語のthink の訳語が脱落しています。
「みんなに公平か」についても、原文にはconcerned:「かかわりのある」「利害関係のある」が抜けています。「みんな」とすると全ての不特定多数の者を対象としている感もあり、少し違うのではないかとも思います。
the TRUTHについても、なぜここにだけtheが付くのか良く分かりません。ただ、「真実」という言葉で片づけてよいものかどうか分かりません。一説によれば「神の御心」という説もあるようです。
ロータリー計画の職業奉仕部門推進の一方法として国際ロータリー理事会がクラブの注意を喚起した「執務上の心得書」には
○ 四つの簡単な質問から成る総ての人間関係の便利な尺度
○ 人に要求するものではなく自分自身の反省の具とするもの
○ この自己反省方式を国際ロータリーは高く評価
「ロータリーにおける諸奉仕活動・特に職業奉仕における指針として常用するにいたる」と書いていますが、特に「人に要求するものではなく自分自身の反省の具とするもの」ことが重要であるかもしれません。また、RI理事会が「これを規則として取扱ってはならない」と勧告(55-56)のもそれなりの理由があるのかもしれません。
なお、先週の例会でお話ししました海軍兵学校五省をお手元に配布しております。これは東郷元帥の書かれたものだそうです。
一、 至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか
一、 言行(げんこう)に恥(は)づるなかりしか
一、 氣力に缺(か)くるなかりしか
一、 努力に憾(うら)みなかりしか
一、 不精(ぶしょう)に亘(わた)るなかりしか
(以下、ウィキペディアより)
考案者は、当時(昭和7年)、兵学校校長であった松下元少将。
今日では帝国海軍の精神を象徴する標語であるかのように語られることがあるが、五省が兵学校校舎に掲げられるようになったのは国内の軍国主義的色合いが濃くなり始めた1932年(昭和7年)からであり、その採用期間は海軍70余年の中でも末期の10数年間に過ぎない。古参の海軍軍人の中には、文語調箇条書きの五省を生徒に唱和させることについて、「(リベラリズムと柔軟性を重んじた)帝国海軍の伝統になじまない」として不快感を表明する者も少なからず存在した。
しかし、一方で、戦後に日本を占領したアメリカ海軍の幹部が五省の精神に感銘を受け、英訳文をアナポリス海軍兵学校に掲示したり、日本国内でも、海上自衛隊が日々の行動を自省する標語として用いたりしている。現在、海軍兵学校の後継にあたる海上自衛隊幹部候補生学校及び海上自衛隊第1術科学校では、五省が旧海軍の伝統として継承されている。
会長の時間3 平成25年7月17日(水)
2013年07月17日
「至誠」 2013.07.17
日田ロータリークラブ会長 橋本信一郎
先週、ウズベキスタンで日本人捕虜が陰日向なく働いたという事をお話ししましたが、そのあとで、この会場にいらっしゃる当時若者であった先輩たちに「なぜ彼らは真面目に手抜きをせずに働いたのでしょうか」とお伺いしたら「当時は『修身』や『公民』や『教育勅語』があったからな」というご感想でした。
そこで私は第三期(大正7年~昭和8年)の「尋常小学校修身教科書(四年生)」を調べてみました。
目録には「勤労」「信義」「誠実」「博愛」など二十七の項がありましたが、最後の第二十七項「よい日本人」が、今回のエピソードの背景つまり当時の日本人の身の処し方の理由に一番近いのではないかと思いました。
そこには「(略)大きくなっては志を立て、自立自営の道をはかり、忠実に事にあたり、志を堅くし、仕事にはげまねばなりません。けれどもよい日本人になるには至誠をもってよく実行することがたいせつです。至誠から出たものでなければ、よい行のように見えてもそれは生気のない造花のようなものです」と書いてありました。
確かに、陰日向があってはとても至誠とはいえません。海軍兵学校の五省の中の第一番目に「至誠に悖るなかりしか」とあります。
大地震でも無傷だったナヴォイ劇場も、一つ一つの作業を疎かにしない至誠によって出来た建造物だったといえます。
誠意を尽くすというのは、かつて日本人の徳目の中で大きな比重を占めていたようですが、現在でも、日本製品の品質の良さなど、まだまだ誇れるものがあると思えますが、今後も継続して行けるものでしょうか。
日本人は真面目すぎて融通が利かないような点もあり、また、誠意の通じがたいような国もありますが、長い目で見れば、誠意を尽くすことが他国から信頼を得る王道なのかもしれないと思います。