木槌の引継ぎ式と花束贈呈
2016年07月06日織田前会長から功能
会長へ木槌の引き継ぎがされました。
また、前会長に現会長から、前幹事に現幹事からそれぞれ労い花束が贈呈されました。
点鐘引継ぎ式
功能会長から織田前会長へ
井上幹事から江藤前幹事へ
織田前会長から功能
会長へ木槌の引き継ぎがされました。
また、前会長に現会長から、前幹事に現幹事からそれぞれ労い花束が贈呈されました。
点鐘引継ぎ式
功能会長から織田前会長へ
井上幹事から江藤前幹事へ
日田ロータリークラブ会長 功能重雄
現在の体調について、お話します。平成23年末にのどのがんが見つかり、翌1月から3月まで、約2ヶ月半入院治療をしました。週5回計37回の放射線照射と抗がん剤の治療を受けました。治療途中からのどの痛み、味覚の消失で食事をとれなくなり、最後の方は鼻くう栄養でした。結局体重は8kg減少しました。退院して間もなくゴルフに誘われて、その時に車の免許を取るように勧められ、自動車学校に行きました。これは気分転換にもなり、大変良かったと思っています。6月1日に免許を取りましたので、それから毎朝6時頃から大原神社に、最初は5kgその後7kgの砂袋をリュックに入れて、毎日100段の階段登りに病院再開まで行きました。これは8月盆休みに木曽駒ケ岳2956mに、家族と登る予定に1年前から計画していたためで、無事登山もできました。現在は、放射線障害のため、唾液が出ないのが1番の苦痛です。その為、話しづらくなり、言葉がはっきりしなくて、聞き取りにくいと思います。これから、会長の時間、御迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。
・7月 6日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
会長運営方針
理事会
・7月13日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
クラブ協議会
・7月20日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
国際ロータリー年次大会報告会
・7月27日(水)午後6時30分 サッポロビール 森のビール園
納涼例会(夜間例会)
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
本日は1年を振り返ってというタイトルです。
私の会長としての最後の卓話となります、これから先は大いに楽をさせてもらいます。
まず本年度のスローガンに『あなたは、今、何が出来ますか』ということをかかげ、このスローガンの下、クラブ活動方針に3つの柱を考えました。
定款細則を見つめなおそう ミャンマーに井戸を掘ろう
未来の日田市を想像し、創造しよう ということで出発致しました。
1・最初に取り組んだのは週報のデザインを決める事でした。
サイズがB5からA4に替わることになり、デザインを佐藤会報編集委員長と相談致しました。絵は江藤幹事の妹さんの江藤久美さんの絵を使うことに決めていましたので、その絵の色調に合わせて全体の色あいを決めました。会長の原稿が長過ぎるのと紙の質が良い事で予算を少々オーバーしてしまいました。
2・ガバナー公式訪問が、年度初めの7月14日にありました。
今年度はガバナー公式訪問が大変早く、それに合わせて活動計画書の作成も急がれました。4月に第1回目の役員会を開き、委員会ごとの活動計画を立てて貰い、6月末には計画書が出来上がりました。7月が始まって直ぐのガバナー公式訪問であり、経験も何もないいきなりの事ですから、私の細い神経は参りました。
しかし最初に大きな試練があったおかげで、その後の運営は順風満帆の船出になりました。
3・定款細則を見つめなおそう。
11月18日には定款細則の冊子が完成し佐藤委員長の卓話が行われました。
以前から日田クラブは独自の定款細則を持つべきであると、そしてこの年度には是非作ろうと考えていました。定款細則委員会には佐藤委員長はじめ、ベテラン会友に委員になって頂き、何度も検討を重ねた結果、立派な細則が出来上がった事は大変喜ばしいことです、厚くお礼を申し上げます。これは他のクラブにも自慢してよい程の出来ばえだと自負しています。
4・10月14日に自由討論会を行いました。
クラブ活動方針に「未来の日田市を想像し創造しよう」と掲げていましたが、この問題は難しすぎるとアドバイスを受け、公約違反になりましたが我々にもっと身近な「ロータリーを楽しもう」というテーマに方向転換し、このテーマでの自由討論を行いました。
丁度例会2500回の記念日にあわせ、コーヒーとケーキを添えた豪華なランチで行うことにしました。
江藤幹事の万全の準備のお蔭で、当日の出席率は93.3%と近来にない高い出席率となり、短時間では有りましたが有意義な討論が出来たのではないでしょうか。
後期にもう一度挑戦したかったのですが、日程の都合であきらめました。
5・ミャンマーに井戸を掘ろう
創立50周年事業でミャンマーに学校を建てました、その続編として、翌年には文房具を届け、今年は現地の要望で井戸を掘ることにしました。
金額は2基で14万円と僅かですが、やはり財団の補助金を使うことにし、原 財団委員長から申請書を出して貰いました。前回同様アメリカ財務省からのチェックもありましたが、無難にクリアーし補助金を得ました。
現地の方は古庄氏にお世話をして頂き、乾季に深さ70mの井戸を2基掘削、その完成視察のために私と橋本会友と2月28日から4日の日程でミャンマーへ行って参りました。現地では学校は以前の2倍の大きさになり、中学も併設され児童数も増え大きく発展していました。
井戸完成の感謝状も頂き、この事業の成果は大きいなと強く感じました。
6・映画 KANO の2クラブ合同上映会をパトリアで行いました。
日田中央クラブは創立40周年事業の一環として、日田クラブは新世代、国際奉仕の取り組みとして、2クラブが合同し、3月19日に映画KANOの上映会を実施しました。
映画上映に先立ち台湾、戎 福岡総領事の講演も行い、同時に台湾南部地震の為の募金も行いました。上映会には900名の観客が来場され、大変感動しておられました。
募金も19万5千円が集まり、3月22日に中央の藤井会長、橋本会友、と私の3人で台湾福岡領事館へ届けに行きました。台湾総領事館では横断幕まで作って迎えてくれました。
このプロジェクトの為に日田と日田中央の役員は7か月間度々会合を開き、打ち合わせを重ね、ようやく開催にこぎつけました。両クラブの友情も大いに深まったのではないかと感じています。
7・台湾の嘉義玉山ロータリークラブへ5月11~13日に行って参りました。
嘉義玉山ロータリークラブ創立17周年の行事には日田クラブから7名の会友と共に出席し、友好クラブ調印を行って参りました、調印は3度目の更新となり丁度10年目になります。台湾の周年行事は毎年盛大に行われ当日も500名もの参加者があり、会長の私はVIP待遇で、会長夫人の横の席に座りました。祝辞を述べ、プレゼントの交換も行い、そこで熊本地震の為の義援金20万円も受領しました。
宴会では台湾式乾杯でもてなされ、注がれた盃を飲干すのが台湾の礼儀であり、忠実に実行した2名の会友が撃沈しました。嘉義では我々一行は大歓迎を受けました。
8・4月14、16日に熊本地震が発生しました。
この為、日田中央クラブ40周年事業と玖珠クラブ35周年周年事業は延期され、熊本宇土RCの周年行事は中止となりました。
熊本地域は、ご存じのように、宇土市に限らず広範囲で被害にあっております。この状況に対し我々日田クラブは義援金として60万円を集め、それと嘉義玉山ロータリークラブからの20万円と合わせて、2720地区熊本地震総合支援室へ送金しました。また川開き観光際には、市と協力して、ロータリー、ライオンズの4クラブ協同の募金活動を行い30.5万円 を市に託しました。
熊本地震の復興にはまだまだ時間が掛り資金も必要とされます、引き続き注視することが大事だと思います。
以上が本年度事業の大略です。これ以外にもプログラム委員会では、例会での卓話者への依頼、社会奉仕委員会ではチャリティバザーと献血例会、職業奉仕委員会では済生会病院、中山化成有限会社、昭和学園高校での職場例会、及び職業奉仕賞の贈呈、国際奉仕委員会では世界大会への参加、等々の事業を一つ一つ実行して頂き、誠にご苦労様でした。
しかし一方では、近頃のロータリーは、RIにしても、地区ロータリーにしても、いろいろな取組事が非常に多くなり、会員の負担が大きくなってきている気がします。
やはり日田クラブはクラブ内の親睦を第一に考え、中央に振り回されることなく自立心を持って活動すべきだと思います。1年を終えて漸くそこにたどり着きました。
本年度は、気付かぬうちに少し頑張りすぎたなと、今になって反省しています。
私事ですが、自分は今まで人前で話をする事など全く考えられない、優しくておとなしい性格の持ち主でした。しかしこのロータリーで鍛えられ、人前に出ることもそれほど気にならなくなって来ました。このことは非常に有難く感謝しています。
但しスピーチだけはどうしても上手くなりませんでした。1年間練習しましたがあきらめました。
このような至らない私に、是だけの仕事を任せてくれた、ロータリーの皆様方に感謝申し上げると共に、江藤幹事の采配に厚くお礼を申し上げます
最後にひとことだけ言わせてもらいます。
私はこの1年、ロータリーの皆様から深い、深い愛と友情をいただきました。
私も、一生懸命真心を込めた仕事でお返しをして参りました。
ご指導、ご協力 誠に有難うございました。
献血例会
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
本日の献血例会では、社会奉仕委員会のメンバーには大変ご苦労をおかけします。
特に中西委員長には、準備に、交渉に誠に有難うございます。
近頃献血者が減少傾向にあるという事ですが、今日は多くの人が献血に来られる事を期待しています。会友の方々には、それぞれの担当場所で献血者への対応を宜しくお願いします。それと同時に事業所への献血の声掛けをして頂けると有難い事です。
今日は、午前午後とも会長、幹事、社会奉仕委員長はパトリアに詰めました。
パトリアでは声掛けの効果があり、58名の方が献血をしてくれました。その他にも5名の方が血液検査で不適格、さらに14名の方が、体重不足、怪我、薬の飲用、海外旅行等々の理由で献血が不適格となりました。用意していた卵もなくなり、10パック買いに走りましたが、とうとう1パック不足しました。パトリアではうれしい悲鳴でしたので今年の成果は良いのではないかと期待しています。
献血活動について
社会奉仕委員長 中西浩
6月15日の献血活動には、多数の会友の皆さまのご協力をいただき誠にありがとうございました。また、事務局や社会奉仕委員の方々には、献血会場のあいさつ回りや諸々の連絡お礼の卵の手配など、準備段階から協力いただき重ねてお礼申し上げます。
ここ数年来場者が減り会場の変更見直しも検討したほうが良いとの声も上がっていましたが、今回は開始時間から来場者が多く、結果、昨年を上回る多数の方々に献血をしていただくことができました。これは、会友事業所の社員さんへのお声掛けや、お知り合い取引先等へ協力依頼していただいた積み重ねの結果です。今回の来場者数を会員数で割ると一人あたり3名ほどになりますが、これが4名になるだけでも大幅な増員になります。もちろん、周知記事、広報、チラシ、ネットでの呼びかけもとても重要ですが、やはり直接の依頼が決め手になると思います。ご協力ありがとうございました。
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
長いようで短かった一年、苦しくても楽しかった一年、そうゆう織田年度も、いよいよ余すところあとわずかとなりました。
本年度最終の夜間家族例会に、奥様方多数ご参加頂きまして誠に有難うございます。
奥様方の支えがあってからこその、日田ロータリークラブであると、重く受け止めています。
もちろん私も家内に大いに支えてもらっています、決して老々介護ではありません。
そして又、今日は井上名誉会友にもご出席頂いています、ごゆっくりくつろいで頂きたいと思います。
振り返って見ますと、織田年度は上手く機能していたのか、それともまずかったのか、良くわかりません、終わってみればどっちでも良いことです。
ただ一生懸命努めて参りました、予想以上に色々な事業が増え、それに対応してきました。
これは偏に、江藤幹事、功能副会長、一の宮SAA、そして理事や委員長の方々、また全ての会友に支えて頂いたおかげであり、本年度も無事に終わろうとしています、ご協力に心から感謝申し上げます。
私も会長としてようやく慣れてきた所でした。慣れて少し横着になってきたところでやめることになります、丁度良い頃合いだと思っています。
来月はもう功能年度です、次期 功能会長、井上幹事に早くバトンタッチをして、ゆっくりと食事を味わいたい気分です。功能会長、井上幹事、来季を宜しくお願い致します。
4月にあった熊本地震の義援金については、日田クラブから60万円、台湾の嘉義玉山ロータリークラブから20万円を寄付致しました。そして川開き観光際に募金活動に参加し、ロータリーとライオンズの4クラブ、合わせて30万5千円が集まりました。
この度、石井会友が旭日双光章を受賞されたことをお祝いし、日田ロータリークラブからささやかながら花束をお贈り致しました。
最後に、もう一つ残念なお知らせがあります。佐藤建身会友が6月末をもって退会されることになりました。先日、武内会員増強委員長とお宅を訪ね、お話を伺いましたが御意志は固いようで、退会願いを受理することと致しました。
佐藤会友は、1969年5月9日入会されていますので、在籍47年、100%出席連続44年になる、大ベテランの会友です。大変惜しい方が退会されることが残念でなりません。ここにご報告しご慰労の花束をお贈り致します。
黒田官兵衛
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
私の会長の時間もいよいよ最終章となってきました。今日は取って置きの最後の史料を紹介します。この文書は福岡藩、黒田長政によって書かれた、藩士の心得を説いた布告文書で、元和3年(1617)は丁度400年前になりますが、江戸時代初期の武家文書です。これほど古い史料が一般の家庭に残っていることはほとんど稀であり、余程家宝として大事に保管していた事と思われます。
一昨年のNHK大河ドラマ、黒田官兵衛をご覧になったことと思います。
ドラマの中では官兵衛の家臣に3人の重臣がいましたが、
第1家老の栗山大善は、近頃人気沸騰の浜田岳が演じていました。
第2家老の井上九郎右衛門には高橋一生が、
もう一人の重臣の母里太兵衛を速水もこみちが演じています。
母里太兵衛は黒田節のモデルであり、福島正則から、酒の大盃を一気に呑み干して日本号の槍をせしめた豪傑です。
栗山大善は黒田長政の子・忠之の時に、その行状をみかねて幕府に訴えます、所謂黒田騒動です。裁定の結果、藩は存続し本人は奥州盛岡藩の預かりとなります、この時に官兵衛の愛用した兜・赤合子(ごうす)も一緒に盛岡に持って行きます。従って、兜は東北に存在します。
井上九郎右衛門は、別府石垣原の戦いで、吉廣加兵衛率いる大友勢を激戦の末、打ち負かす武将です。井上九郎右衛門は1万2千石の家老でしたが、黒田騒動の後追放されます。
その井上九郎右衛門の子孫が日田にいると聞いてビックリしました、しかもよく知った方で、二度びっくりしました。井上秀樹さんといいます、現在中央通りの自治会長をなさっていますが、さすが井上九郎右衛門の子孫だけあって選挙のたびに、いつも選挙参謀をしておられるようです。井上氏から、見せて頂いた物が今回の史料です。
井上家は、その後何度かお家再興を試みますが、望みはかないません。江戸時代末期の天保12年(1841年)に久留米の有馬藩を介し福岡藩へお家再興を願い出ますが、有馬藩は動いて呉れたのですが成功しませんでした。
この詳細は井上家史料の中にありました。
本史料では、井上九郎右衛門が筆頭家老で、栗山大善丞が末席ですが、これは九郎右衛門は非常に長生きであったようで、栗山大善は息子の代に替わっているのです。
このように古文書は非常に面白いです、謎を解いていく気分は推理小説そのものでワクワクします。
本日の職場例会は昭和学園高校にお邪魔しています、草野理事長、岡崎教頭、草野浩輔教諭には大変お世話になります。
校舎が新しくなって、私は2度目の訪問となりますが、改めてホテルのようなモダンな校舎に、こういう校舎で勉強できる学生は幸せだなと羨ましさを感じます。学生さんも大変喜んでいることでしょう。
私達の学生の頃の校舎は、木造2階建て、隙間づくり、夏は暖房、冬は冷房完備の粗末な教室でした。
それが当り前で特に文句もありませんでした。しかし、高校生活は、青春時代そのものであり、勉強もあり、悩みもあり、恋もあり、人生の本当のスタートでありました。高校時代の友人は今も親しく付き合っています。
学ぶということは、
1・教える先生の強い情熱
2・学ぶ学生の強い意欲
3・社会状況や教育環境 等々が大いに影響するのではないかと考えます。
2年前の大河ドラマ「花燃ゆ」には幕末の松下村塾が出ていましたが、吉田松陰は松下村塾で、そもそもどれくらいの期間教えていたと思いますか?
調べてみたら、わずか2年9か月です。
安政元年(1855)には黒船に密航しようとして失敗し投獄されます。
安政2年に、出獄し自宅蟄居
安政3年3月から、幽囚室で近所の若者に講義を始めます。 (それから1年8か月後の)
安政4年11月、塾生が増え、部屋を増築し
松下村塾と名前を改めて講義を始める。 (その1年1か月後の)
安政5年12月、安政の大獄でとらえられる (この間わずか2年9か月です)
安政6年、斬首 享年29歳
しかし塾生が凄い、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋、吉田俊麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義等々。
教える方と学ぶ方の情熱のぶつかり合いが凄かったことでしょう。
私たちも、同じく3年間高校で勉強しました。自分たちに学ぶ意欲がなかったのでしょうか、あるいはたまたま先生方の情熱が低かった時でしょうか。
一方、咸宜園は92年も続いています。
これから先、日田市の将来は、公立校より私学の双肩にかかっているような気が致します。これからも頑張って下さい。
嘉義玉山ロータリークラブ17周年授證慶典(祝賀会)及び日田、玉山友好クラブ更新調印式
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
先週、5月11日は嘉義玉山ロータリークラブと友好クラブ締結書の更新調印式の為、嘉義玉山ロータリークラブ17周年授證慶典(祝賀式典)に出席して来ました。日田からの参加者は、織田、佐竹会友、橋本会友、諌山会友、井上太香美会友、頓宮会友、中野会友の7名です。
11日は早朝から江藤幹事見送りの中、日田を出発し福岡空港、桃園空港、それから新幹線で3時ごろには嘉義に着きました。嘉義駅には玉山ロータリークラブの会員が出迎えてくれました。
ホテルで一休みの後、6時前に式典会場に入り、式典は6時から始まり7時半まで続き、それから祝宴会へと移り9時半ごろまで、500名の出席者で多いに盛り上がりました。
式典では、舞台の上と下に横1列にならんだ雛壇を作り、中央に会長夫妻、左右に来賓がずらりと並びます。中央会長夫人のすぐ左横に日田ロータリー会長の席は設けられ、緊張した時間を過ごしました。全く言葉の分らない祝辞や出席者の紹介などが続くのをぼんやり聞いていたところ、急に自分の名前を呼ばれて、あわてて立ち上がりましたが、危うく椅子ごとひっくり返りそうになりました。
友好クラブ締結書への署名式は式典の早い段階に行われ、条約文書に署名をしました。
次に会長プレゼントの交換が行われましたが、プレゼントには、今年度職業奉仕賞を贈呈した相沢秀一さんの漆器を持参しました。
その後、嘉義玉山ロータリークラブから熊本地震に対するお見舞いの言葉と、義援金として20万円を託されました。 早速、日田ロータリークラブの義援金60万円と合わせ、熊本地震総合支援室に送るよう手続きを取ります。広報委員会もこの件について宜しくお願いします。
その後祝辞では、まず台湾と、嘉義玉山クラブからの、熊本地震に対するお見舞いと義援金に対するお礼を申し上げ、次に日田ロータリーでは3月に「KANO」の上映会を開催し、戎台湾総領事の講演を行った事、台湾南部地震の為の募金箱を設置し19万5千円が集まり、同時に日田クラブからも10万円の寄付を現地に送った事等を伝えました。
祝辞も無事終え、その後も式典はしばらく続きますが、やがて何処からともなくテーブル毎に飲み始め、目の前の日田クラブのテーブルでも酒盛りが始まり、私は壇上から恨めしく眺めるばかりでした。
祝宴は7時半から始まり、日田クラブのメンバーも旧知の会友の方と盛んに交流の乾杯を重ねておりました。台湾式の乾杯は飲干すのが礼儀であり余程用心していたのですが2名ほど犠牲者が出ました。犠牲者には心から同情します。
祝宴では、嘉義玉山クラブが大歓迎をしてくれまして、いろいろな出し物を用意していました。余興のダンスはテンポよく軽快な振り付けで、大人も子供も、男性も女性も、本当にかわいらしく、楽しく踊っていました。あの踊りはいいなと感心しながらながめました。
2次会、3次会と付き合った猛者もいますが、私は2次会で退散しました。
12日は嘉義のメンバーに朝から昼食まで案内して頂き、午前中には新しく完成した故宮の別院である南院を見学しました。入館予約が急だった為に嘉義の会長が手配をしてくれたようです。
有名な翡翠の白菜が入り口の1番に展示してあり、これが例の白菜かとじっくり観察しました。会場内は精巧な玉の製品や、透き通るほど薄く削った玉のお茶碗などがあり、その細工には感心しました。また有田の磁器もたくさん飾ってありました。
午後は嘉義から台北に移動し夕食には台湾料理を堪能しました。
翌13日は、午前中に九份に行き、千と千尋の神隠しの湯婆婆の屋敷でお茶を飲みましたが、天瀬の高塚とはだいぶ規模が違うようでした。
午後からはもう帰り支度となり、日田には10時半に帰り着きましたが、高速道で日田に近づくと、しだいに我町日田が世界で一番良い町だとじんわり感じられ、井上さんと2人で日田はいいなと言いながら帰って参りました。
会長の時間
副会長 功能重雄
※会長が友好クラブ調印式で台湾訪問のため
「真名 仮名について」 日本列島は、元来、無文字社会であった。アイヌ語も、文字はなく音声、歌で伝承されてきた。 奈良時代、中国から漢字が伝来し、漢字のことを真名(まな)という。仮名(かな)は、仏典を読むのに音訓の読みだけを用いた万葉仮名に始まり、借字(かりな、かんな、かな)に由来する。 片仮名は、不完全を意味し、たとえば、多(タ)伊(イ)江(エ)牟(ム)平仮名は、平安時代、漢字の草書体から草仮名、更に簡略化されて平仮名となった。
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
今回の、4月14日、16日の大地震では、熊本、大分の両県は甚大なる被害に見舞われました。特に熊本県の益城町、西原村、南阿蘇村では言葉では言い尽くせないほどの凄惨な状況です。被害にあわれた方々には心からお見舞いを申し上げます。
一方ロータリーでも2720地区は大分、熊本が地盤であり、その全域に被害が広がっています、被災されたロータリアンも多数おられることと思います。
2720地区では、ガバナーエレクトの事務所に熊本地震総合支援室が設置されました。そこから
の通達がありました。(ところで皆さんの被害状況は如何でしょうか?)
早速、埼玉県の戸田イブニングRCから、10周年記念事業を取りやめ、その資金をすべて義援金として送りたいがどうすればよいかと事務局に問い合わせが有りました。そこで新設された熊本地震総合支援室の口座を連絡致しました。
我々日田クラブもこの状況にどう対処すればよいのか、どういう援助が出来るのか、本日の理事会で検討して参りたいと考えています、皆様のご協力を宜しくお願い致します。
また、この地震の影響で、日田中央クラブは40周年の記念行事を半年間延期することを決めました、この対応に苦慮している模様です。我々日田クラブでも20日の例会は休会と致しました。
宇土RCの30周年事業も延期との連絡がありました。玖珠クラブも延期のようです。
被災された住宅はもちろんですが、熊本城や阿蘇神社の姿を見ると、地震の恐ろしさが、真面に伝わって来ます。今回改めて、布田川断層や日奈久断層など認識しました。別府―万年山断層帯にある何本も入り組んだ断層を見ると、益々心配になってきます。有感地震も900回を超え最高になりました。一刻も早く終束してくれることを願います。
私のメモには、14日、9:26分 ポケットの携帯が、警報音と共に振動した、一瞬何が起こったのか分らなかった。3回目の警報音と共に回りがカタカタと音を立て始め、次第に激しい揺れと変わり、家ごとグラグラと揺すられていった。不安になって大黒柱のそばに移動したが、ストーブの火は消えなかった。NHKに変えると日田は震度4だった。
16日の本震はもう一回り大きな揺れでした、中にはこの地震に気付かなかった強者もおられるようです。天瀬地区は簡易水道が濁り、我家の水道水は茶色になり1週間ほど給水車の世話になりました。
天瀬から日田に来る間でも、神ノ釣のトンネル入り口の崩落等、運転中気付いただけでも5ケ所程崖崩れが起こっていました。
これから先は次第に収束に向かうと思われますが、自らの安全と被災地支援を考えて参りたいと思います。
・6月 1日(水)
次年度クラブ協議会
理事会
・6月 8日(水)午後6時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
家族会 夜間例会
・6月15日(水)
献血例会
・6月22日(水) 日田市の歴史の宿亀山亭
会長卓話 織田荘太郎会長
・6月29日(水)
休会
・5月 4日(水)
休会
・5月 7日(土)
宇土RC創立30周年記念式典
ホテルニューオータニ熊本 中止
・5月11日(水)〜13日(金)
台湾友好クラブ再調印
・5月11日(水) 日田市の歴史の宿亀山亭
会員卓話 石松雅彰会友
・5月18日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
台湾再調印報告
・5月21日(土)
玖珠RC創立35周年記念式典 望山荘 延期
・5月25日(水)
職場例会 昭和学園高等学校
・5月28日(土)〜6月1日(水)
韓国ソウル国際ロータリー年次大会
・4月 6日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
雑誌月間 北郷太門雑誌委員長 ・理事会
・4月10日(日)
地区研修協議会
・4月13日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
地区大会報告
・4月20日(水)
休会のまま
・4月23日(土) 日田市のマリエールオークパイン
3クラブ合同例会
日田中央RC40周年記念式典 →中止(秋ごろに延期となります)
・4月27日(水)午後0時30分 日田市の歴史の宿亀山亭
ロータリー情報月間 田嶋R情報委員長
理事会
地区大会報告
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
3月26~27日に地区大会が、熊本市民会館崇城大学ホールで開催されました。
出席者は日田クラブから織田、佐竹委員長、江藤幹事、松本会友、永田会友、田嶋会友、諌山会友、井上会友、石松会友、原会友、森山会友、湯浅会友、一の宮会友、中西会友の14名です。
大会ではRI会長代理に、2008~9年にご自身もRI会長を務められた李東建(イドンカン)氏が来られ、アドレスと最後の大会所感を述べられました。アドレスでは、変化を受け入れ、もっと懸命に努力しなければならないと、そのように述べられました。
地区大会には、韓国や、台湾からも多数参加されていましたが、休憩時間にステージ上の李東建RI会長代理の許へ、挨拶や写真撮影の為に韓国の参加者が全員ステージに上り行動する姿は日本人とは少し違うなと感じました。
大会はコンパクトに速やかに進行していきました。
メインプログラムの「ポリオ ダバイ ピライエ」とは耳慣れない言葉ですが、ポリオ撲滅の為の活動を、パネラーの奉仕活動や体験談を通して我々に紹介し、教え、そして喚起する大変興味深いプログラムでした。パネラーは6名です。
1人目は、福祉活動などに経験豊富な、地元熊本放送局の女性アナウンサー。
2人目が、ポリオ投与の為に今回インドでの活動に実際に参加された、野田ガバナー御本人。
3人目は、ポリオ投与活動を長年主催しておられる、代表でエキスパートである医師のロータリアン
4人目は、小児まひにかかり、マヒが残り今も車いす生活ですが、立派に工場長を務めておられる方
5人目は、ポリオ投与のインド旅行に初めて参加し、その意義に大変感動している若いローターアクトの女性
6人目は、同じくこの活動に参加した若いロータリアン。
以上6人のパネラーが、それぞれ活動と経験を踏まえたしっかりした話をされました。
昔し、日本にポリオが流行しワクチンがなく困った時期、アメリカでもポリオが流行し自国の対応に追われていた、その時国交のないソ連から大量にワクチンが送られてきた事。
ポリオに感染してマヒの為、車椅子の生活だが、工場長を任され立派に務めている方の話。
ローターアクトの女性は、この活動に初めて参加し、その意義に感動し、機会があればまた参加したいと話していました。
ワクチンの投与は、舌の上に2滴ほどワクチンを垂らし、投与の済んだ人には手の小指の爪に黒のマーキングをする。この色は長期間落ちないそうです、すでに投与の済んだ子がほとんどだそうです。
野田ガバナーご自身も、この日の為に事業に参加され、インドまで行き活動されています。
本当に、誠実に、確実に行動する、野田ガバナーの本質を見た気がして、今までにない取り組みだと非常に好感を持ちました。
野田ガバナーご自身も、インドでのポリオワクチン投与活動の報告を通じ、ポリオについての理解を深めるにとどまらず、我々は何をなすべきかという問題提起が出来たのではないかと、手ごたえを感じておられるようでした。
次にもう一件、別府北ロータリークラブのグローバル補助金を使った事業報告に、難しい事業によくぞ取り組んだと、感心しました。我々日田クラブは地区補助金を利用して、単独でミャンマーに学校を建てましたがその時にグローバル補助金の難しさに気付いていました。
グローバル補助金は単独クラブではなく、いくつかのクラブと共同して計画をしなければなりません、その代り補助金額はけた違いに大きくなります。別府北クラブの場合は、自己資金60万円に対し、総事業費1130万円となっています。日本からは別府北クラブのほかに6~7クラブが参加し、相手国タイではクロイントRC外19クラブが参加、共に協力してタイ バンコックのソムチェックホスピタルに2台の最新型人工透析器を寄贈した事業だそうです。
2720地区にグローバル補助金推進チームを作って進めたと伺っていますが、よくこれだけの数のクラブをまとめる事が出来たなと改めと感心させられました。
名字について
日田ロータリークラブ会長 織田荘太郎
近頃、「夫婦別姓」という言葉を良く耳に致します。
西日本新聞1月9日の記事に、伝統でない「夫婦同姓」という論評がありました。
(記事では)日本に戸籍制度が確立したのは「壬申戸籍」によってであり明治5年の事である。これを機に身分制度を担ってきた「姓」「氏」は解消され「名字」となった。「名字」は3年後義務化されたがどんなものでも届け出さえすればよかった。そもそも江戸時代まで武士は「夫婦別姓」であり、庶民には公的な姓も氏もなかったのであるから、まさに「適当」につけたはずである。・・以下省略
江戸時代には百姓町民には名字がなかった? ・・・これは本当でしょうか、嘘でしょうか?
江戸時代武士階級は「夫婦別姓」であった? ・・・これは本当でしょうか、嘘でしょうか?
まず、庶民には公的な姓も氏もなかったのであるから、まさに「適当」につけたはずである。という表現は、かなり乱暴な表現をしています。
明治3年、平民苗字許可令が出されますが、世間ではあまり関心がありませんでした。
明治8年、平民苗字必称義務令が出されて、一般平民すべて名字を持たなければならなくなります。
この時庶民は、皆適当に名字をつけたと思っておられる方が多いと思いますが、これは間違いです。
江戸時代は、百姓町人に名字を公的に名乗ることを許さなかっただけで、名字を消滅させたり、取り上げられてしまった訳ではありません。公文書には百姓町人の名字は載っていませんが、私的なお墓、鳥居、庚申様、神社奉納帳などのものには、ちゃんと名字が見られます。これは、名字自体を庶民の多くが、かなり高い確率で保持伝来していたということです。江戸時代は250年続きます、その間には名字が分からなくなった人もいるかも知れませんが、それはごく少数派です。
そう言う訳で、その時に適当に名字をつけた人もいた、という表現が正しいと思います。
次に、江戸時代の武士階級は夫婦別姓だった。これは本当です。
武士は男の世界であり、男が武士の「家」を継ぐが、しかし「妻」はよそ者だという概念でした。
明治5年には名字の変更が禁止され、そこで問題になったのが「女は結婚した後、生家の名字を名乗るのか、夫の名字を名乗るのか」ということです。
政府が「夫婦別姓」を堅持したのは、「家」は血族を持って構成されるべきで、「妻」は外部の者だから、「家」の姓から除外すべきである、とする考え方です。政府には、武家出身者が多く武士の習慣が民法に適用されたのでしょう、これは明治9年から明治31年まで続きます。
この間、「夫婦同姓」の伺いが何度か出されていますが、政府は聞き入れません。しかし、庶民の方は「夫婦同姓」が慣習であり、いくら政府が「夫婦別姓」を説いても従えなかったという訳です。これによって、明治31年に民法が執行され、ようやく「夫婦同姓」となります。
それから120年後の今、再び選択的「夫婦別姓」論が出て来ました。明治時代とは意味合いが違うでしょうが、以前「夫婦別姓」から「夫婦同姓」に何故変わったのかご存じなのだろうかと、心配になります。