会長の時間2
日田ロータリークラブ会長 白石章二
1905年世界恐慌の中、青年弁護士ポール・ハリスは三人の友人とロータリークラブを結成します、ロータリーの名称は会員の事務所を持ちまわりで会場とした事から付けられたそうです。
1918年日本の経済使節団の一員として訪米中の、当時三井銀行の重役であった米山梅吉が、ダラスRC在籍の福島喜三治(三井物産ダラス支店長)と出会い、ロータリークラブの例会に出席した事をきっかけに、ロータリークラブの素晴らしさを知りこの事が、日本のロータリークラブの誕生に繋がりました。
特に米山梅吉が共感したことは、ロータリーの利己の無い奉仕の精神と行動だそうです。
その後帰国した米山は、日本で最初のロータリークラブである東京ロータリークラブの創設に尽力し、1920年には、福島氏も帰国し、10月20日に創立総会が開催され、1921年に正式に国際ロータリーより承認されたそうです。
そのため、東京ロータリークラブは国際ロータリー直属のクラブとなったとの事です。
しかし、当時は例会への出席状況はあまりかんばしくなかったようです。
その後、大阪ロータリー、神戸ロータリー、名古屋ロータリー、京都ロータリーと続々と日本各地にクラブが結成されていきました。
しかしその後、大陸での戦火拡大と対米関係の悪化に伴い、日本のロータリーに対する攻撃は段々と厳しくなり、例会に憲兵や特高警察がしばしば臨席するようになり、一部の新聞報道などでは、「米国のスパイ」よばわりされ「解散すべし」とまでいわれました。
そしてついに軍当局に呼び出され、ロータリーの存在は大日本帝国に対する反逆であるとまで極言され、東京ロータリーも1940年9月の例会でついに解散を決議しました。
その後、終戦を迎え4年後の1949年ついに東京ロータリークラブの復活となります。
この国際団体への復帰は宗教団体を除けば日本での最初の団体だったそうですが、米山梅吉は1946年4月にロータリーの復活を見ることなく、故郷の沼津で逝去されました。
その後の日本のロータリークラブは、経済成長に伴い世界で2番目の会員数を誇るほどになりました。
しかし近年では経済状況などの原因で、会員数の減少傾向が見られるところとなりました。